突如として、ハマスによる大規模なイスラエル襲撃事件が起こりました。世論やマスコミ各社は当初こそイスラエルに同情的でしたが、次第にハマスも悪いが、強引な入植を続けてきたイスラエルにも問題があるという論調に変わってきています。国連安保理のグテーレス事務総長も「ハマスの攻撃は理由なく起きたわけではない」と語りました。
しかし一方で、高原剛一郎先生の「ごうちゃんねる」を見ますと、双方には何度も二国家解決策や和平合意の提案がなされてきたが、パレスチナ側がそれらを拒否してきた経緯があるのだと解説されています。また、中川健一先生は自身の「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の中で、クリスチャンはイスラエルを支持すべきだと解説されています。両者とも非常に深く広い見識があり、私たちが気付けない多くの点を指摘されながら、丁寧に解説されていますので、ぜひご自身で直接視聴して、判断していただければと思います。
このように多くの情報が飛び交う中で、どのように受け止めたらよいか判断がつかないという方も多くいらっしゃると思います。私自身も中東近代史の専門家ではありませんので、分からないことが多いのですが、考え方のヒントになることをシェアしたいと思います。それは「レイヤーを分ける知恵」についてです。
■ パレスチナとハマス
前々回、アラブ諸国とイスラエルが、もともとは同じ祖先アブラハムから出ている異母兄弟であり、現在に至るまで兄弟げんかが続いているという大きな流れについて解説しました。これは旧約聖書的な視座からの重要な視点ですが、もちろんそれで全てが説明できるわけではありません。
近・現代の問題に解像度を上げて見ますと、現代のアラブ諸国にはさまざまなレイヤーがあります。大きなところでは、スンニ派とシーア派、民主化の度合い、経済的な発展度、石油の埋蔵量、背後にいる大国などによっても各国の事情や思惑は異なります。そしてそれらのアラブ諸国とパレスチナ自治区の住民、またパレスチナの住民とハマスも、それぞれに異なる立場ですので、私たちは丁寧に分けて考えなければなりません。
パレスチナとハマスについて言えば、もしも今回のハマスの襲撃行為がパレスチナ住民の総意の下に行われたのだとしたら、奇襲攻撃によりイスラエルの多くの民間人が虐殺されたのだから、それに対抗する自衛攻撃の過程でパレスチナ側の民間人に多少の犠牲が出ることはやむを得ないと考える方がいるかもしれません。しかし実際には、ハマスはパレスチナの代表ではなく、ガザの住民の大部分はハマスに人間の盾として利用されている被害者だということに留意しなければなりません。
■ 建国時のイスラエルと今のイスラエル
さて、イスラエル側についても考えてみたいと思います。高原剛一郎先生は「少数派のユダヤ人が、多数派のパレスチナ人が住んでいた土地を奪って建国した」というのは、そもそもが誤解であると主張されています。信頼できる公式データを基に「イスラエルは建国当初、国連の分割決議案を受け入れ、二国家解決策を受諾し、和平的であった」とも解説されていますので、ぜひ直接見てほしいと思います。
しかし、イスラエルという国も当然のこと、一枚岩ではありませんし、時代とともにその趨勢(すうせい)も変化します。かつては、パレスチナとの二国家解決策を望む穏健派の方々が主流派だったとしても、現在もそうであるとは限らないということです。
昨年12月に第6次ベンヤミン・ネタニヤフ連立政権が発足しました。この政権に参加したのは、極右政党といわれる「宗教シオニズム」や「ユダヤの力」です。そしてこれらの政党は入植地拡大を支持し、パレスチナ国家樹立に反対しているといわれています。
宗教シオニズム党首のスモトリッチ氏は財務相に赴任してすぐに、パレスチナ自治政府の代わりに徴収した税金のパレスチナ自治政府への送金を停止して、その金をテロ犠牲者遺族への補償金に回したと報じられています。また「ユダヤの力」党首のベングビール氏は、就任後すぐにエルサレム旧市街にあるイスラム教とユダヤ教の共通の聖地を訪れ、パレスチナとアラブ諸国が猛反発していると報道されています。これらのことは善悪では語り得ないことですが、結果的にパレスチナとの緊張を高めたことは否定できないでしょう。
つまり、イスラエルという国の中にも、多くの政党があり、それらの政党の趨勢も時代とともに変化しているということです。ですから、本当に何かを理解するためには、国内のさまざまなグループというレイヤーとともに、刻々と変化する時間軸というレイヤーも考慮しなければならないのです。
■ 何が争いを引き起こしているのか
重要な視点として見落としてはならないのが、何が争いを引き起こしているのかという点です。私たちはついイスラエルとパレスチナ(ハマス)という紛争の当事者のみに焦点を合わせてしまいますが、その周辺にはさまざまなグループがいます。
犠牲となる市民や末端の兵士、政権(組織)中枢、背後で支援している国々、営利を追求する軍需産業、政治に多大な影響を及ぼしている資産家たち、それぞれの立場によってさまざまな思いが交錯しており、それが事態をより複雑にしています。
■ クリスチャンはイスラエルを支持すべきか
私も、キリスト教会がイスラエル(ユダヤ教)を敬い、信仰の起源(台木)としてシンパシーを感じ、イスラエルの祝福や平和のために祈ること自体は聖書に基づいたことだと思います。しかし、無条件に今の「イスラエルを支持すべき」かどうかは、少し立ち止まって考える必要があります。
なぜでしょうか。それは、アブラハムの子孫であり、キリスト教のルーツである「イスラエル」の祝福と平和のために祈ることと、現政権の「軍事行動」を支持することの間には乖離(かいり)があるからです。
私はネタニヤフ首相を批判しているわけではありません。大変な国難の中で、日々神経をすり減らすような決断を迫られていると思います。私たちは国の指導者たちのためにも祈る必要があります(1テモテ2:1)。
ただ、信仰に基づいてイスラエルの祝福や平和のために祈ることと、各人の政治信条に基づいて現政権の軍事行動を支持するかどうかということは、異なるレイヤーとして捉えなければなりません。その上で、各自が冷静に判断していく必要があるのだと思います。当然のことですが、クリスチャンが現政権の「軍事作戦」を支持することによって、キリスト(メシア)の再臨が早まるなどということはありません。
■ 割り切れない人の心
さて私は先ほど「ハマスはパレスチナの代表ではなく、パレスチナの方々とは分けて考えなければいけない」と述べましたし、同様の論調で解説される方々も多くいます。それは大切な視点ではありますが、それで全てが割り切れるわけでもありません。
なぜなら、そもそもハマスは2006年の民主的な選挙で多くのパレスチナの人々の支持を得て勝利し、過半数の議席を取ったという経緯があるからです。また、米国の国際政治学者であるミアシャイマー教授は直近のインタビューの中で、「ハマスを排除することは難しく、ハマスを排除できたとしてもハマスと同じようにイスラエルを敵視する別の組織が現れるだろう」と分析しています。
もしもパレスチナの方々が、ハマスを全く支持しておらず、皆がその犠牲者だということであれば、ハマスを掃討すればイスラエルには平和が訪れるということになりますが、事態はそう単純ではありません。むしろ、身内を殺されたり、家を追われたりしたパレスチナの若者が次々とハマスに加わり、イスラエルへの報復を続けるという構図が繰り返されているのです。
また一方で、イスラエルの右傾化というのも、理由なく起きているわけではなく、極右といわれるような方々だけに自制を求めれば事が収まるというわけでもありません。度重なるハマスのテロ攻撃を受けて、当初は和平的だったイスラエルの方々でさえ、次第に心が硬化していくということがあるからです。イスラエル史上、最も右寄りといわれる現政権が発足したのも、イスラエルの民意と無関係ではあり得ないのです。
ですから今回のような複雑な紛争を理解し、和平に向けた取り組みをするためには、精緻にレイヤーを分ける知恵と、決して割り切ることのできない人の心に対する深い理解が必要となります。考えてみますと、人の心にはとても複雑なグラデーションがあり、自分の心ですら治めることができないのですから、他者のイタミ、悲しみからの憎しみ、喪失と絶望を簡単に図解して分かるわけもないのです。
■ 両刃の剣より鋭い神の言葉
このような複雑な問題に対して、「人」は意味のある言葉を語るすべを持ちません。たとえ誰かが、どんなに深く正確な専門知識を持っていたとしても、その言葉が空を打ち、場合によってはさらなる対立をあおってしまうことになるというのが今の現状です。ところが、聖書にはこのような記述があります。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)
癒着している「関節と骨髄」、定義さえよく分からない「たましいと霊」、どんな名医でもメスを入れられない患部に、「神のことば」が語りかけるというのです。
■ あなたがたのうちで罪のない者が
多くの人が、ハマスは悪であると断罪しています。確かに、彼らは人命を軽視し、赤ちゃんまでも殺害し、幹部たちは外国の安全な場所にいながら、民間人を人間の盾として利用し、テロ攻撃をしていると報じられています。しかし、民衆がこぞって「罪」を裁くことに関して、キリストはこのように語られました。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
10代そこそこの子どもたちが、銃を持つ組織への入隊を希望するようになる背景を想像できるでしょうか。彼らは、生まれながらに戦火を身近に体験し、家族を失い、高い壁の中に閉じ込められているのです。彼らは生まれた場所が違えば、銃の代わりにペンをとって勉強し、皆に尊敬される人になっていたかもしれません。
また当初、和平的だったイスラエルの人々の心が右傾化していったとしても、それも彼ら個人に帰せられる問題ではありません。度重なる報復の連鎖の中では、どんなに徳の高い人であったとしても、その心が硬化してしまったり、苦々しい思いに満たされてしまったりすることは当然のことだからです。
どちらの陣営であれ、民間人を無差別に攻撃した人たちは、戦争が終わった後に、法によって裁かれるということはあるでしょう。それを否定しているわけではありません。でも私たちが誰かを断罪したり、憎んだりする必要はないのです。
■ 人と罪について―使徒パウロの悟り―
私たちはどちらかが「悪い」という議論をやめにしなければなりません。これは私たち全員の中にある「罪」の問題であるからです。律法を厳格に守り、宗教に熱心で、道徳心の高い歩みをしようとしていた使徒パウロは、自分の中に「罪」があるという原理を見いだしました。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。(ローマ7:15〜17)
人と罪を分けるということは、無責任なように聞こえるかもしれませんが、聖書の神様は私たちをそのように診断してくださり、私たちのうちに罪や問題があるとしても、なお私たちを「人」として愛してくださるのです。
■ キリストの言葉
イスラエルの方々もパレスチナの方々も、家族や隣人と仲良く暮らし、殺したり殺されたりしない生活を送りたいと願っているはずです。しかし、恐怖やあふれる情報の中で、私たちは正確な判断ができなくなっています。情報戦やフェイクニュースで世論が誘導され、人々は不安の故に疑心暗鬼になり、お互いを憎み、敵視するようになっています。それに対して、人の言葉はあまりに無力で、時に「やかましいどらや、うるさいシンバル」(1コリント13:1)のように無用なものです。
そのような私たちに対して、キリストは明瞭な真理を語られました。
自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。・・・そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。(ルカ6:32〜35)
しかも彼は、安全な時に言葉でそれを語られただけでなく、自分を十字架につけた人々をさえ愛し、彼らの罪を全てご自身の身に負われながら、十字架の上でこのように祈られました。
イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)
この地には、他者を断罪・批判する「言葉」、正確ではあるけれど何の解決にもならない「解説」があふれています。キリストが語られた神の言葉「愛と赦し」を心に刻み、共にイタミと悲しみ、恐怖の中にいるイスラエルとパレスチナの方々のために祈りましょう。
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