イスラエルに対して欧米各国は「揺るぎない結束した支持」を表明しました。また、民間人を巻き込まないため、国連安保理が戦闘「中断」を求める決議案を発議しましたが、米国は単独で拒否権を行使しました。つまり欧米(特に米国)は全面的にイスラエルを支持・支援しているわけですが、これらの理由について深く考えてみたいと思います。
この度の争いは一見すると、ユダヤ人とパレスチナ人の問題ですが、その背後にはキリスト教福音派が深く関わっているのです。
■ ユダヤ系住民よりもキリスト教福音派がイスラエルを支持
一般に言われていることは、米国の中枢には優秀なユダヤ人の方々が多いということです(米国在住のユダヤ人は、500万人以上)。そのため、米国は自然とイスラエル寄りの政策をするようになるという説明です。実際に、今回の件でもブリンケン米国務長官はイスラエルの訪問に際し、「私は単に国務長官としてでなく、一人のユダヤ人として来ています。・・・米国はイスラエルの後ろ盾です」と語りました。
しかし、ユダヤ系住民がいくら多いとはいっても、米国全人口の中では約1・7%ほどですので、その人たちの考えが反映されているだけだと言うには、あまりにも米国はイスラエルを特別に扱ってきました。その力学をひも解く鍵が、「福音派」の存在です。
例えば、上智大学教授の前嶋和弘先生は「アメリカの中のユダヤ人よりも福音派の方がイスラエルを支持している」とニュース番組の中で解説されていました(10月12日放送BS‐TBS「報道1930」、「2つの戦争"二正面作戦"の困難 アメリカの誤算と支援の行方は」)。また、「イスラエルの強硬派 アメリカの福音派を動かす」というNHKの特集(2018年10月26日付)の中では、以下のようなことが解説されています。
キリスト教福音派はアメリカ国民のおよそ4分の1を占めるアメリカ最大の宗教勢力。「ユダヤ人国家イスラエルは神の意志で建国された」としてイスラエルへの支援を信仰の柱に据え、おととしの大統領選挙では、トランプ氏当選の原動力になりました。
そして、トランプ大統領は当選後、エルサレムに大使館を移転しました。これは、内外にエルサレムがイスラエルの首都であることを認めた形になっています。このことが発表されたときには、割れんばかりの拍手が起きたそうです。ではなぜ、福音派はイスラエルを支援し、「イスラエルは神の意志で建国された」と考えるのでしょうか。
■ 反ユダヤ主義
今回のイスラエルとパレスチナの争いには、キリスト教は直接関わっていないように見えますが、かつてのキリスト教圏には強烈な反ユダヤ主義というものがありました。それにはこのような幾つかの理由があります。
一つには、キリストが十字架で処刑されたのはユダヤ人たちのせいだという認識が広がったためです。またもう一つは、ユダヤ人たちは人が嫌う金貸しの仕事をするようになり、金に汚いユダヤ人という偏見が造成されていったためです。
その結果、ユダヤ人が殺害されたり、お店が略奪されたりすることもありました。極め付きは、ナチスドイツによるホロコーストです。そして、それらの苦難の歴史が、イスラエルを国家建設に向かわせた原動力となっています。
ですから今回の紛争に関しても、キリスト教にとって他人事ではありません。そして、これらの歴史を痛切に反省した欧州のキリスト教は、イスラエルに対して同情的な立場をとるようになったのです。
■ イスラエルの祝福のために祈る―アブラハム契約―
そして米国もまた、民主党にしても共和党にしても、強固なイスラエル支持を表明しています。それには、先ほども紹介したようにイスラエルを支援する福音派の存在が大きいといえますが、実際には福音派に限らず、カトリック教会を含めた全てのキリスト教会は、多かれ少なかれイスラエルに対してシンパを感じていると思います。それはなぜなのでしょうか。
それには、前回紹介したアブラハム契約が深く関わっています。そこには「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という神様の思いが示されていました。しかし、それにはこのような一文が加えられていました。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」
これは古代から旧約聖書に書かれている内容ですので、中世のキリスト教会の中でも気が付いていた人はいたかもしれません。しかし、誰もが聖書を読める時代ではありませんでしたので、イスラエルを祝福することが大きなうねりになることはなく、前述したように、むしろ反ユダヤ主義的な状態が続いていました。
ところが、20世紀になってイスラエルの祝福を祈ることや、イスラエルの人々に福音を伝える運動が盛んになってきました。1920年には中国から「バック・トゥ・エルサレム運動」が起こりました。60年代からは、米国のバプテスト教会を中心に「メシアニック・ジュー」の方々の信仰が擁護されるようになってきました。また、2002年からは、1400人以上のキリスト教指導者と何百万人ものキリスト教会の人々がエルサレムと全ての人々の平和のために祈る運動が展開されています。
つまり、キリスト教会は、長い間の反ユダヤ主義の時代を経て、イスラエルが祝福されることを通して地上の全ての民族が祝福されること、またイスラエルの平和のために祈ることが神様の願いであることに気が付いたのです。
■ 新約的観点―パウロ神学―
また、旧約のアブラハム契約だけではなく、多くの新約聖書を著した使徒パウロは、このような見解を示しています。
もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。(ローマ11:12)
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う」(同25、26)
また上記の内容は、植物の接木のメタファーとして分かりやすく説明されています。これはキリスト教がイスラエル(ユダヤ教)の歴史、信仰、旧約聖書に野生種として接木されたものであるというものです。また同時に、もとの栽培種であるイスラエルが、再び自分の台木につがれる日がくることを示唆しています。(ローマ11:17〜24)
■ キリストの再臨の条件
またもう一つの重要な側面として、キリストが再臨するための条件を整えるために、キリスト教会がイスラエルを支援しているという面があります。1948年にイスラエルが建国されたことに、世界中が大きな注目を寄せました。
それは単に一つの国家が誕生したからではありません。このことはキリストの再臨が近づいたということを予感させたのです。キリストはこのような預言を残されています。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つのを見たならば・・・(マタイ24:14、15)
この当時、キリストの弟子たちは非常にわずかで、世界中に広がるとは考えられないほどでした。しかし、この預言の通り、キリスト教は欧米、アフリカ、南米、東南アジア、中国やロシア、まさに文字通り世界中に宣べ伝えられました。つまり、聖書の預言が、文字通り成就しているのです。
そして終わりの日が来ることも預言されているわけですが、その時には『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つとあります。聖なる所というのは、エルサレム神殿を指すと考えられています。ところが現代のエルサレムにはイスラム教のモスクがあり、イスラエルの神殿がありません。1948年以前にはイスラエルという国家自体もありませんでした。
つまり、キリストが再臨するという預言が成就するためには、イスラエルという国家の存在と、その聖都であるエルサレムに神殿が再建されていなければならないと多くの人たちは考えているのです。
そして実際に、イスラエルでは神殿再建の準備も進められていると聞きます。ユダヤ教徒の方々が嘆きの壁の前で祈っていますが、彼らは神殿が再建されることを祈っているそうです。これらのことは、久保有政先生によって昔から詳しい解説がなされています。
私は前回、イスラエルが入植を続けてきたことがあつれきを生じさせていると書きましたし、日本の報道もそのような論調が多いように思います。しかし実際には、過去に何度もあった和平合意のチャンスをパレスチナ側が拒否してきたのだという見方もあります。
ですから、私の見識で善悪を論じることはできないし、するべきではないと思うようになりました。しかし、上述してきたような事情が、米国のキリスト教福音派がイスラエルを特別に支援している大きな理由であることは確かです。そして、このことが今日の米国の政治と国際情勢に多大な影響を与えているのです。
■ 神の主権、主のご計画
私の個人的な考えでは、神様のご計画を人が自分の恣意的な考えや政治の力で早めようとする必要はないと思います。私自身も信仰者ですから、キリストの再臨を信じていますが、その日その時がいつであるかは、人智を超えたものであり、ただ父なる神だけがご自身の深い思慮とご計画の中で定められることです。
反ユダヤ主義に陥った人たちの過ちは、ユダヤ人たちがキリストを殺したとして、キリストが願ってもいない復讐心を持ったことです。しかし、キリストはあらかじめこのように語っていました。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。(ヨハネ10:18)
そして、キリストの再臨を自分の考えや政治力で早めようとすることも同様に、神様の主権や深慮への無理解からきているのかもしれません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタイ24:36)
キリストですら関与することができない、神の「時」について、人がどうこうすることはできないのです。ただ、いつ主に再会してもよいように、油を絶やさずに主の言葉を心に留め、互いに愛し合い、落ち着いた日々を送ることを主は願っておられます。「主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます」(マタイ24:50)と書かれているのですから。
■ おわりに
キリスト教会がイスラエル(ユダヤ教)を長兄として敬い、信仰の起源(台木)としてシンパシーを感じ、イスラエルの祝福や平和を願うこと自体は聖書に基づいたことです。また、ある国が特定の国を支援することや、自衛権を行使すること、政治家が自己の信念に基づいて行動することは彼らの役割です。私たちは国の指導者たちのためにも祈るべきでしょう(1テモテ2:1)。
事態は刻一刻と変化し、大規模な中東戦争に発展する危険性が現実味を帯びてきました。私たちは、事態がエスカレートする方向ではなく、何とか沈静化し、人々の心の中から怒りや復讐心が暴走することのないように祈りましょう。
私は聖書の有名な放蕩息子の例えを思い起こします。罪を犯し放蕩三昧だった弟が、無条件に受け入れられることによって父の愛を知ることができたという話ですが、そのことは真面目な長男の心を固く閉じさせてしまいました。
しかしもちろん、父は長男をも愛していて、家族が皆で愛し合い喜び合うことを願っています。これが、道徳律や法では規定できない父の心を汲む新約聖書的な世界観です。
そして「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」とありますから、私たちはイスラエルのためだけでなく、パレスチナを含むアラブ諸国の平和と祝福のためにも祈る必要があります。
兄弟は常にけんかするものであり、親心を知らずに親を悲しませるものです。しかし、父は全ての子どもたちを愛しているのですから。
万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように」(イザヤ19:25)
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