こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ1:26、27)
前回は、13歳ほどの不安定で不器用な「ただの子ども」たちが、「ゲイの人は地獄に行く」というような言葉を聞いて、極限のプレッシャーに押し潰されそうになっているということを確認しました。今日は、彼らのような方々のことを念頭に置きつつ、同性愛について直接的に言及している新約聖書「ローマ書」の解釈に進んでいきたいと思います。
冒頭の聖句は、世界中のLGBTイシューの深層に関わっているといっても過言ではない聖句です。一見すると、明らかに聖書が同性愛をタブー視しているように読める箇所です。今まで伝統的なキリスト教会が、同性愛に対して否定的だったのもうなずけます。私たちは、このような箇所をどのように受け止めればよいのでしょうか。まずは、少し前の部分から丁寧に読んでいきましょう。
■ 罪の「根っこ」
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:20〜25)
パウロが批判しているのは、表面的には同性愛のことのように読めますが、そのすぐ前の箇所で彼が言及しているのは、創造主(神様)に対する「信仰」に関することです。確かに私たちは、神様を見ることはできませんが「神の永遠の力と神性は、被造物によって知られ、はっきりと認められる」ではないかとパウロは主張しています。
ところが、当時の人々は「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、その無知な心は暗く」なり、「造り主の代わりに造られた物を拝」むようになっていました。これこそが罪の「根っこ」であると彼は指摘しているのです。当該箇所の後の部分では、その結果としての「罪の属性」について、次のように書いています。
■ 罪の属性―高慢と無慈愛―
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。(同1:28〜31)
結果として、使徒パウロが見るに当時の人々は「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者」となってしまいました。同性愛の罪として有名なソドムに関しても、その不義は高慢や慈愛の無さだったとエゼキエル書に書かれています(エゼキエル書16:49)。
それでは、キリスト教信仰を持たなければ悪なのかと言われる方もいると思います。しかし神様(天)に畏怖し感謝する心というのは、全ての人に与えられているので、特定の教義を持っているいないにかかわらず、天に首(こうべ)を垂れ、感謝することができます。西行法師の有名な詩にこのようなものがあります。
「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
神様に対する明確な認識がなく「何ごとのおはしますかは知ら」ないとしても、森羅万象を見て、その背後に「大いなる存在」を感じ、生かされていることに感謝し、首を垂れる人は、同性愛の方であるとしても高慢や無慈愛とは縁が遠い人でしょう。そして、私が異性愛者であるとしても、他者を裁き高慢で慈愛のない者であれば、神様の前に裁かれるのは私の方なのです。
■ 互いにそのからだをはずかしめるようになり
このような文脈の中で冒頭の箇所を読むと、聖書が全ての同性愛の方々を断罪しているわけではないことが分かります。ここで批判されているのは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、高慢で慈愛のない人々のことです。そして、その結果として「心の欲望のままに汚れ」に進み、「互いにそのからだをはずかしめるように」なることに対して聖書は警鐘を鳴らしているのです。
情欲というのは「自然な用」であり、パートナーとの関係を親密で愛に満ちたものとしてくれるものです。しかし同性愛の方々であろうと異性愛の方々であろうと、不自然で自分本位の欲望の充足のみを追求する場合、それは悲しい(むなしい)結果をもたらします。
それでは具体的には、どのようなものが不自然な情欲なのでしょうか。例えば、不特定多数との乱行、夫婦同士が互いのパートナーを交換するスワッピング、金銭を払っての買春行為、過度のポルノ依存・・・。人によって何が自然であるか不自然であるかの線引きは異なるかもしれません。スワッピングなどは最近の流行ドラマでも描かれていて、あたかも自然なことであるかのような風潮になりつつあります。しかし、何が自然なことであるかどうかは、皆様の良心が知っていることでしょう。
■ 自然な用を捨てて
「ローマ書」に書かれている同性愛の方々について、注目すべき点は「自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え」と書かれているところです。これは、最初は異性との自然な性関係を持っていた人々について書かれているのです。それが、自分本位の欲望(情欲)の充足のみを追求した結果、異性との自然な性関係だけでは満足し切れなくなり、同性同士との行為に及ぶようになってしまうことに関して書かれているのです。
つまりは、最初から同性に引かれてしまっている方々を断罪するために書かれているのではないのです。同性愛の方々であれ、異性愛の方々であれ、自分本位の欲望の充足のみを追求して、不自然な行為にエスカレートしていくことに関して警鐘を鳴らしているのです。
■ 自分の欲に引かれ
ところで、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡され」とあるので、神様が私たちを積極的に誘惑しているようにも読めてしまい、ひどい神様だと思われた方もいるかもしれません。しかし実際には、私たちは自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されているのです。使徒ヤコブは明確にこのように書いています。
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13〜15)
また、先ほども言いましたが、情欲というのは「自然な用」であり、パートナーとの関係を親密で愛に満ちたものとしてくれるものです。しかし、不自然で自分本位の欲望の充足のみを追求すると、それは罪に変質し、それが熟すると死に至ると警告されています(ここでいう死とは、肉体の死ではなく、魂の父である神様と関係が断絶してしまうことを意味します)。
■ おわりに
私たちは異性愛であっても同性愛であっても、皆が「自分本位の欲望の充足のみを追求」してしまうということに覚えがあるのではないでしょうか。私自身も例外ではなく、10代の頃から長い間、聖書の教えている「聖(きよ)さ」と、自分本位な性的欲求との間で葛藤を覚えてきました。振り返ってみると、寂しさやむなしさ、そして孤独というものが、その焦燥をさらに募らせていたように感じます。ですから、同じような悩みを抱えている方がいるとしたら、私はとても断罪する気にはなれません。
父なる神様も私たちの弱さをご存じで、そのような私たちを一方的に愛し、イエス・キリストをこの地に送ってくださいました。そして、彼もまた私たちを愛し、十字架の上でその血を流し、私たちの全ての罪の代価を支払い、贖(あがな)いを完成させてくださいました。前々回の箇所で、罪の代名詞のようなソドムをご自身の元に帰らせるのが主の心だと書きましたが、今日の箇所にしても、所々厳しい内容に見えるのは、子どものためを思って叱ってくれる親心なのです。
私が信仰と良心の責めに苦しんでいた大学生の頃、大きな慰めとなった聖書箇所があります。今回はそれを紹介して終わりにしたいと思います。神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じで、その上で私たちを愛してくださっているのです。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(1ヨハネ3:18〜20)
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