人生の最初の十九年間、私は誰よりも聖書を絶対視するホモフォビア(同性愛嫌悪者)でした。私はゲイの人に対して、ためらうことなく差別的な用語を使いました。私はゲイのコミュニティについて全く関心がなく、関心を持とうとすら思いませんでした。
私がLGBTと聖書に関する今回のシリーズを書くに当たって、参考とさせていただいている一冊の本があります。アンドリュー・マーリンという方が著した『LGBTと聖書の福音』という本です。その冒頭部分で、著者は上記のような告白をしています。
このような彼が、ある事件をきっかけに大きく変わりました。それは、大学時代に彼の親友3人が、立て続けに彼にカミングアウトしたことでした。その友人たちは、聖書が同性愛をタブー視していることを知っていましたが、それでも親友のアンドリューさんに自分たちのことを理解してほしくてカミングアウトしたのです。
それを聞いた彼は心を痛め、何も言えず、告白した友人と共に涙を流しました。その後しばらくして、彼は3人の友人を呼んで一緒に話し合うことにしました。最初に彼は、素直に自らの伝統的な立場をぶつけました。
ゲイであるということは罪だと信じてる。・・・君たちは地獄に行くんだ。・・・際限なくお酒を飲み、麻薬をやるようになる。君たちは無差別に淫らな行いをするようになる。・・・どこかの時点でHIV/AIDSかSTD(性感染症)に感染するんだ。(20ページ)
しかし彼は、友人たちを断罪するためにこのように言ったのではなく、彼らを理解する話し合いをするために口火を切ったのです。幸い、彼らの間には信頼と友情があったので、異なる立場にありながら夜通し語り合いました。彼らはこのように率直に話してくれたといいます。
このような考えや感情に一人で対処するのはどんな気持ちだったか。・・・自分は正しいのか間違っているのか、正常なのか異常なのか、罪深いのか罪深くないのか、・・・彼らのせいなのか神のせいなのか、確証がない・・・。(同上)
その後、アンドリューさんはLGBTの人々をよく知るために、週4日のペースでLGBTのクラブやバーで時間を過ごし、その場にいた人々と語り合いました。結果、多くの人が彼に自分の人生の物語を語り出し、号泣することもしばしばだったそうです。そして多くの場合、その涙はクリスチャンや教会によってもたらされたネガティブな体験によるものだったとのことです。
■「ただの子ども」
さて、自らの同性愛的な傾向に気付く平均年齢は13歳であるといいます。この頃の自分たちのことを思い出してくださいと著者は語りかけます。
そうでなくても思春期真っただ中で、不安定で不器用な日々を抱えているのに、どこから来たのかも分からない、新しく、時に恐ろしい性的な欲求の重荷が加わったとしたら、どうでしょうか。一般的な家庭でもその傾向はあるでしょうが、米国の福音派の家庭においては、家族や教会、友人にそのことを告白することはリスクが大き過ぎて、ほとんどの子どもは、誰にもそれを伝えないといいます。
彼らは、LGBTイデオロギーを喧伝する活動家でもなければ、麻薬や不特定多数との淫乱な行為を繰り返す者でもなく、神様に対する純朴な信仰を持った「ただの子ども」(中学生)なのです。そのような彼らに、ある人たちは一方的に「ゲイの人は地獄に行く」ということを伝えていました。このような言葉に、普通の「ただの子ども」が極限のプレッシャーを感じ、押し潰されそうになっていたということに、著者は気が付くのです。
■ ジョンのケース
同書に出てくる、ジョンという方がいます。彼はクリスチャンの家庭に生まれ、教会とユースグループに精力的に関わっていました。しかし、中学生の時に自分がゲイであることに気が付いた彼は、傷ついていました。37歳になるまでの22年間、彼は誰かに気付かれはしないかという考えに圧倒され、知人の全てから社会的に自らを締め出しました。
そして毎日「主よ。私が明日目覚めるとき、他の人と同じようにストレートにしてください」と祈りました。しかし、毎朝彼は何も変わっていないことに気付き、落胆して壊れた気持ちになったといいます。そして彼が至った結論は、神はいないのか、それとも自分はその同性愛的な感情によって地獄に行くことがすでに定められているのだという絶望的な2択だったといいます。
■ マシュー・バインズさんのケース
前回紹介したマシュー・バインズ(Matthew Vines)さんはこのように言っています。
ゲイでいることは、必ずしも悪いことだからではなくとても不便なことですし、とてもストレスで生きづらいことです。よく一人ぼっちだと感じ、孤独になります。人と違うことが理解されないと、受け入れてもらえないと感じるのです。(中略)
いつかは結婚し、誰かと人生を分かち合い、家族を作りたいという強い願いがあります。しかし、伝統的な解釈によると、クリスチャンとして僕が愛や人生のパートナー、家族を持つ可能性は、完全にゼロとされます。(中略)
伝統的な解釈に従えば、誰かと恋に落ちても、それが両思いでも、僕の唯一の選択は別れることです。失恋することです。一人で孤独に引きこもることです。それは一度だけに収まらないでしょう。人生でこれからずっとそうしていかなければいけないのです。誰かと出会って楽しい時を過ごしても、その人をもっと好きになってしまうのではないか、愛してしまうのではないかという恐れを感じてしまいます。(中略)
そして、友人が恋に落ち、結婚して、家族を持つのを見たら、いつも置いてけぼりになります。自分の伴侶を持ち、子どもを持つ、そのような喜びを味わうことは決してありません。いつも一人なのです。それはとっても悲しいこと・・・。
■ マディーさんのケース
彼女が9歳の時、父親が彼女を地下室のトイレに連れて行き、便器にチェーンで縛り付けました。彼女は泣き叫び、チェーンを外してくれるように嘆願しましたが、「もし誰かに言ったらおまえを殺す」という忠告を受け、彼女は3カ月も監禁されました。その後、父親は彼女を14歳になるまでレイプし続けました。
彼女は当時のことを振り返りながら、このように言っています。
私は女性に惹(ひ)かれているわけではありません。しかし二度と男性が私に触れることは許さない。(57ページ)
彼女は成人男性に対しての恐れがあまりにも大きいため、レズビアンであることを選んだのだと、著者のアンドリューさんは解説しています。
■ 先入観を持つことへの警鐘
しかしもちろん、マディーさんのようなケースが全てではありません。アンドリューさんは、私たちが誤解することのないように、このようにも言っています。
すべてのLGBTの人が、ひどい家庭環境だったか、もしくは性的に虐待されていたと考えるほうがよっぽど楽なのです。そうすればクリスチャンは、なぜ神がそのような困難を人に与えられたのかという説明のできない理由と直面する責任を免れるからです。(54ページ)
先ほどのマシュー・バインズさんは、愛情的で安定した理想的な家で育ち、両親を愛していて、父と母の両方と強い絆で結ばれていたといいます。彼は、幼い頃に誰かに性的ないたずらをされたり、虐待されたことはなく、とても恵まれた環境で育ったと言っています。
しかし、ある人たちは心理学者気取りで、LGBTの方々に対して「幼い時に、何らかの性的な虐待を受けたか」と問うのだそうです。このようなステレオタイプを押し付けることは、彼らの境遇を単純化して理解した気になっているだけで、LGBTの方々の心の奥に土足で踏み込むようなものなのです。
■ 聖書の御言葉の上に自分の思いを置くのか?
教会の祈祷会の中で、ある方がこのようなことを言っていました。
「以前は、LGBTの方々は環境的に影響されてそのようになったと思っていた。けれども、全く原因がないのに、ある日突然に自分が同性愛者であることに気付き、神様にストレートにしてくださいと祈っても変われないという苦しみを抱えている人もいると聞いたときに、自分の考えを改めさせられました」
私たちはLGBTというキーワードでひとくくりにしてしまうことが多いのですが、一人一人には異なる背景があり、それぞれが個別の悩みやストーリー、そして自尊心(プライド)を持っています。ですから、もしも彼らを理解し、友人でありたいと思うなら、今回紹介した著者のように、先入観を捨てて、目の前にいる相手の心の声に、ひたすら耳を傾けることが大切になります。
しかし、誤解しないでいただきたいのは、このように苦しみを抱えている方々がいるのだから、以前紹介したゲイの牧師が主張していたように「聖書の一部分を無視しよう」と言いたいわけではありませんし、腫れ物に触るように、LGBTの方々の主張は全て優先されるべきだと言いたいわけでもありません。
ただ、聖書を解釈するに当たって、今回紹介したような人々の心情を心に留めておいてほしいと思うのです。特に「ただの子ども」たちが極限のプレッシャーに押し潰されそうになっているということを覚えていただきたいと思います。
そして、皆様が彼らの境遇に心を砕くことは、父なる神様の心に適うことでもあります。何か、神様にはデリカシーがなく、私たちの方が人の心の機微に敏感なので、神の言葉にオブラートをかけてあげる必要がある、ということではないのです。
私たちの目を造られた方は、私たちが見えない部分も見てくださっていて、私たちの耳を創造された方は、私たちの声にならない呻きにも耳を傾けておられ、私たちに心を与えてくださった方は、他の誰よりも心のイタミをご存じなのですから。
今後はいよいよ、本丸というべき新約聖書の解釈に取り組んでいくのですが、今回のコラムのシリーズに何か明確な結論のようなものを期待しないでいただければと思います。そして、反対だ容認だと単純な二項対立にもしないでいただきたいとも思います。
イタミを抱えている人の話に耳を傾け、父なる神様の深い心情をくみ、祈りつつ、共に中保者の役割を担っていただければと思います。
◇