「人間は感情の動物である」といわれています。その通りで、人は理性によって理路整然と何かを説明されたとしても、感情的に受け入れられないことは、絶対に受け入れることができません。特に、差別や被害を受けた側は、そのことを容易に忘れることはないでしょう。伝統的なキリスト教の聖書理解とLGBTの方々との間には、非常に多くの、そして致命的なほどの葛藤の歴史があります。今回は、その過去を直視するところから始めたいと思います。
■ 同性愛と西欧キリスト教の歴史
中世〜ルネサンス期:過度の迫害の歴史
欧州ではキリスト教が支配的な宗教であり、同性愛は非常に厳しく非難されていました。同性愛行為は特別な罪と見なされ、しばしば迫害の対象となりました。死刑となることもありました。そのため、同性愛者は秘密裏に生きることを余儀なくされていました。
20世紀前半:教会からの拒絶
米国のキリスト教会も、同性愛を特別に罪悪視する傾向がありました。聖書の一部を根拠に、同性愛を特別に不道徳であると見なし、非難する立場が主流でした。同性愛者はしばしば社会から排除され、教会からも拒絶されました。
1960年代〜1970年代:ゲイ・ライツ運動
この運動は、同性愛者の権利を求めて社会的な変革を促進するものであり、同性愛者の権利に対する意識を高めました。しかし、キリスト教会の多くはこの運動に対して強く反対し、同性愛者に対する差別と非難を続けました。
1980年代〜1990年代:HIV・エイズと教会の反応
HIV・エイズが広がると、同性愛者への偏見と差別が一層顕著になりました。一部のキリスト教会は、HIV・エイズを同性愛の罰として解釈することで同性愛者を非難しました。しかし他の一部の教会は、HIV・エイズ患者と同性愛者に対して積極的な支援を示すようになりました。
いかがでしょうか。キリスト者や教会の方々の中には、これらの経緯を直視するのを無意識に避けてしまう方がいるかもしれませんが、歴史を振り返ることなしに、和解も建設的な話し合いもすることはできません。
2020年代の現代においては、同性愛者を含むLGBTQ+コミュニティーに対する包摂的な姿勢を取り始めている教会が増えており、同性愛者の信仰を歓迎する動きが進んでいます。一方で、保守的な教会は依然として同性愛を容認せず、伝統的な教義に従った立場を堅持しています(同性愛自体というよりは、同性婚の是非についての激しい対立があります)。
■ 宗教的な「罪」と「犯罪」―イスラム教国家のケース―
同性愛行為によって「死刑」となったと聞くと、現代のわれわれの感覚では理解できませんが、それは必ずしも遠い昔の話ではありません。ブルネイでは2019年、同性愛行為や不倫に対し、シャリア(イスラム法)に基づいて石打ちによる死刑などを科す厳格な法律が施行されました。
イランもまた、シャリア法を厳格に適用して、1979年のイスラム革命以降、同性愛者に対して死刑判決が下されることが知られています。サウジアラビアにおいては、ソドミーを行った既婚男性は投石による死刑に処せられる可能性があるといわれています。アフガニスタンにおいても、タリバン支配下において、同性愛者への死刑が報告されています。これらの例は、シャリア法を厳格に適用しているイスラム教の国家や組織で見られる傾向です。
一方で、これらはイスラム教の世界全体を代表するものではなく、国や地域によっては異なる立場を取ることもあり、シャリア法による死刑判決を回避するために法改正などが行われている場合もあります。そして、上記のような厳格な法律がある国々においても、実際の公式な死刑報告は、ない国々が多いです。冒頭のブルネイのボルキア国王もわずか1カ月後には、国際世論の反発を受ける形で、死刑適用を猶予する方針を明らかにしました。
とはいえ、公式報告がされていないということは、実刑が全くされていないということではないでしょう。当該国に住むLGBTの方々は、決してカミングアウトすることもできずに、当局や社会の目を恐れながら生活することを余儀なくされています。
さて、伝統的な価値観や教義のもと、同性愛は「宗教的な罪」であると認識している方々が少なからずいることがお分かりになったと思います。その是非は、また次回以降のコラムで詳しく深掘りしていきたいと思いますが、少なくとも言えることがあります。「宗教的な罪」の概念と、社会的な刑罰の伴う「犯罪」の概念は分けて考えなければならないということです。
同性愛自体を特別な「犯罪」であると一方的に決めつけて罰することは、深刻で致命的な対立しか生みません。それがもたらすのは「恐怖」や「憎しみ」であり、恐怖が健全な社会の礎になることはあり得ません。特に自分たちの教会の信者でもない方々を裁くことは、厳に慎むべきであり、聖書もそれを禁じています(1コリント5:12、13a参照)。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(ローマ14:4)
■ 中国やアフリカ、日本の状況
今まで宗教的な理由による差別や弾圧の歴史、現状を俯瞰(ふかん)してきましたが、必ずしも宗教的でない国々においても、LGBTの方々が差別されてきた現実があります。例えば、中国では1997年に同性愛が合法化されましたが、人々の同性愛嫌悪は根強く、当局は同性愛者の権利向上を求める活動家に対しては刑務所に送るなど厳しい態度をとっています。97年以前は、同性愛自体が犯罪として扱われていました。
またアフリカにおいても、54カ国中30以上の国で同性愛は犯罪とされています。
日本においては、宗教的な規範が希薄なために、キリスト教国やイスラム教国のような差別は存在しないという方々もいます。確かに、他の諸国よりも差別は少なく、自然な形でLGBTの方々は垣根なく社会に溶け込んでいるように見えます。
しかし、昔からそうだったかというと、必ずしもそうではありません。例えば、私が小学生の頃、クラスの中で軟弱そうに見える男子に対して「あいつホモじゃない?」「お前、ホモだろ」というようなダイレクトな言葉が、面白半分に飛び交っていたのを記憶しています。
■ 嫌悪される理由
では、どうして「同性愛」というのは、時に人々に嫌悪され、差別され、迫害されることまであるのでしょうか。一つには宗教的な教義の問題もあるのですが、今確認したように、必ずしも宗教的でない国々でも同様の拒絶反応が起こってきました。それはなぜなのでしょうか。
端的にいうと、少なからぬ方々(特に年配の保守的な方)は、常識的、感覚的、生理的に同性愛を受け入れられないという実情があります。愛知県の渡辺昇県議(54)が「同性婚が気持ち悪いと言って何がいけないのか」とSNS上に書き込み、大炎上しました。彼が配慮に欠けた表現をしてしまったというのはその通りなのですが、他の人々の中にも公には言わないだけで、そのように感じてしまっている方々が一定数いるのです。
ではなぜ、LGBTの方々に対して、嫌悪感を持ってしまう方々がいるのでしょうか。それに対して、キングコングの西野亮廣さんがヒントになることを言っています。それは「知らない」という感情と「嫌い」という感情が近いということです。
人が何かを嫌っている理由を丁寧に見てみると、本当に嫌いだから嫌っているのではなくて、知らないから嫌っているということが多いといいます。彼は誰もやったことがないことを、最初に始めた芸人さんです。例えば、芸人なのに絵本作家になる、クラウドファンディングやオンラインサロンを始めるなどです。結果として「怪しい」「宗教だ」「あいつは嫌いだ」というような批判を多く受けてきたといいます。
ではなぜ「知らない」ことを人は嫌悪するのでしょうか。それは無意識のうちに、私たちのうちに焦りや不安の感情をかき立てるからです。そして私たちはその感情を鎮めるために、その「未知の何か」を忌避したり、嫌悪したりするのです。私自身もかつてはネガティブな感情を持っていまして、ゲイの方に手を握られたときには「ゾクッ」として、すぐにその場から立ち去ったという経験がありました。
しかし、一人の同性愛の方と知り合う機会があり、いろいろな話を聞いているうちに、そのような感情はなくなっていきました。その方は、とても明るくて、皆に配慮する心遣いがあり、いろいろな方々を分け隔てなく受け入れる素晴らしい方でした。ですから、知らない故に何となく嫌悪感を持ってしまっているという方がいるとしたら、避けるのではなく、一人の人として先入観を捨てて接してみたらよいのではと思います。
■ 御子イエス・キリストが来られた主目的
さて、この生理的、心理的、潜在意識的な嫌悪感に「宗教的な教義」が加わると、事態は破滅的な結果をもたらします。それが中世から現代まで続いている、伝統的な宗教観の方々による差別と迫害の歴史です。
確かに聖書には、一見すると同性愛を断罪するような箇所があります。ですから真面目な信仰者の方ほど、どこまでを受け入れるべきで、何を聖書が禁じているかの判別に悩まれる方も多いと思います。しかし、聖書全体の文脈を読み解き、新約聖書的な福音の光の中で旧約聖書を丁寧に読み解くと、必ずしも一方的な断絶や対立を生むものではないことが分かります。そのことを次回以降、丁寧に読み解いていきたいと思います。
私は教会によってある程度、細部の解釈に違いが出てくることは承知しています。そうであっても私たちキリスト者は、神様が聖書を与え、御子イエス・キリストを遣わしてくださった主目的を見失わないようにすれば、大きくズレることはないと思います(ヨハネ10:10参照)。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)
◇