2023年6月16日、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」通称「LGBT法」が日本の国会において成立し、6月23日に公布され、即日施行されました。この法案の成立にはさまざまな紆余(うよ)曲折があり、論議の的とされていますが、この法案が扱うイシューの根っこには「聖書理解」の問題が深く関わっています。
端的にいえば、米国において伝統的な聖書解釈の立場の中には、同性愛は特別な「罪」であると理解する方々がいて、LGBTの方々との間に埋めることのできない対立や葛藤、そして深い傷を生んできたということです。
このイシューに関わる全ての事象は、とても複雑である上に、個人の内面(プライバシー)に関わる性の問題であるために、非常にデリケートに扱わなければなりません。私は、この時代に生きる一人の神学を営む者として、信仰者として、また社会の一員として、少しでも建設的で和解的なコラムを、聖書の記述に沿って書かせていただきたいと思います。
まずは、日本におけるこの法案の目的ならびに成立の過程から振り返ってみたいと思います。
■ 法案の目的
この法律の目的は、第1条において、以下のように規定されています。
性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解が必ずしも十分でない現状に鑑み、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する施策の推進に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の役割等を明らかにするとともに、基本計画の策定その他の必要な事項を定めることにより、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性を受け入れる精神を涵養(かんよう)し、もって性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に寛容な社会の実現に資することを目的としています。
一見すると「多様性」や「寛容」などがうたわれていて、何の懸念もない理想的な法案のように思えます。しかし、保守層の中には、このような法案がかえって社会の断絶を助長するという意見もあります。実際に2021年の時点では、自由民主党内の保守系議員から強い懸念の声が相次ぎ、法案の提出が断念されたという経緯があります。
■ 強引な「一任」取り付けと青山繁晴議員の証言
ところが今年になって、5月12日に開かれた「性的マイノリティに関する特命委員会」と内閣第1部会の合同会議においては、状況が一転しました。この委員会では法案への反対意見や慎重論が根強く、過半数以上が反対している状況の中で議論が打ち切られ、部会長らに法案の取り扱いが「一任」されるという事態になりました。
この経緯の問題点について、青山繁晴議員がご自身のチャンネル「青山繁晴チャンネル・ぼくらの国会」で詳しく解説しています。それでは、以下に氏が語られた内容の一部を抜粋して文字起こししてみたいと思いますが、興味がある方はぜひ【ぼくらの国会・第521回】ニュースの尻尾「LGBT法案 何が起きたか」全編を見ていただければと思います。
拍手しながら「一任!!」「一任!!」と言って、これは自由民主党じゃないです。実際に性的なマイノリティーで苦しんでいる人たちの立場は、これで良くなるとは全く思えない。むしろ、もう分断は始まっている。暗い社会になることも懸念しますから、この一任がいけないってことを僕は座ったまま何度も何度も言いました。
私は一任したと認めていませんと。だからそこで成立していないんだから、その後の手続きも無効じゃないですか。立法府で、一番大事なのはプロシージャ、手続きなんですよ。だから最初の一任が無効だったら、後のも無効。反対18、賛成は11人か10人、いずれにしても過半数を反対派が取っていて一任したという手続き自体に「瑕疵(かし)」「問題」「傷」がある。
青山氏は、過半数を反対派が取っている状況の中で、強引に「一任」に持っていったという手続き自体に「瑕疵」「問題」「傷」があると、非常にはっきりと強い口調で証言しています。青山氏は、参議院選挙において1回目48万人、2回目37万人と2年連続で自由民主党の中で1位の票を得ています。その議員をはじめとして、反対する議員が多数派の中で、強引に「一任」を取り付け、十分な議論が尽くされないままに法案が成立していく過程は、民主主義の国家として尋常ではありません。
自民の和田政宗参院議員も「反対が多いのに『一任』はあり得ない。党内民主主義に反する。法案提出ありきで期限を区切っているのではないか」と、青山氏と同様のことを述べています。
最終的に、議員たちは党議拘束によって縛られ、自らの考えに基づいて自由に票を投じることができずに、大部分が恭順しました。ただ、この手続きの過程を承服しかねた青山氏をはじめとした少数の議員たちは、処分を受ける覚悟で「退席」という形をとり、自己の信念を通しました。
■ 外圧? 内政干渉?
ではなぜ、このように半ば強引に、そして拙速に今回の法案を通さなければならなかったのでしょうか。
一つには、日本が議長国を務める第49回先進国首脳会議の開催を前に体面を気にしたという面があったようです。また、荒井勝喜元総理秘書官による性的少数者差別発言や、岸田文雄内閣総理大臣の同性結婚の法制化についての答弁に対して、世界中から批判や反発が起こったことなども影響していたようです。
このような状況の中で、ラーム・エマニュエル駐日米国大使による直接的な発言も後押しとなりました。彼は「私は米国の大使として気にしている。そして個人としてこの問題を非常に気にしている」と述べました。
エマニュエル大使に対しては、法案に賛成と反対の立場から「心強い」と感じる方もいるでしょうし、「内政干渉だ」と批判する方々もいるでしょう。皆様はどう感じられたでしょうか。
■ ジェンダーアイデンティティー
この法案の要となる「定義」に関しても二転三転し、最終的には「ジェンダーアイデンティティー」というカタカナ表記の曖昧模糊(もこ)な表現に落ち着きました。この経緯についても、少し触れておきます。
5月18日、自由民主党と公明党は与党案を衆議院に提出しました。この与党案は保守派に配慮して修正したものであり、「性自認」という表現を「性同一性」に変更しています。
では、保守派の方々は「性自認」という言葉のどこに懸念を感じたのでしょうか。「自認」というのは、文字通り自分の心で認めるということですので「そのように感じる」というだけで、どちらの性の立場としても自己を表明できるということです。
それに対して性同一性(障害)の場合には、ある程度客観的な身体所見、染色体検査、ホルモン検査を行い、2人の精神科医が診断を行うこととなっています。これは、「性自認」という言葉のニュアンスとはずいぶんと異なります。もちろん、「障害」という言葉を使うかどうかという点は、デリケートに取り扱われるべきでしょう1。
ところが6月9日、与野党は協議の上、「性同一性」という表現を、再び「ジェンダーアイデンティティー(gender identity)」という表現に変更しました。つまりは法の適用範囲をぼかし、医師の診断が必要なものから、将来的にいかようにでも解釈できるカタカナ英語にしたのです。
ある方々は「性自認」も「性同一性」も同じ英語「ジェンダーアイデンティティー(gender identity)」の訳であるから、意味は同じであると主張しますが、そんなわけはありません。例えば、「Cool」という英語は以下のような日本語に訳されます。「冷たい」「カッコいい」「イケてる」「最高」「面白い」「センスが良い」などです。これらが、同じ意味であると思う人がいるでしょうか。
さて、法の施行により、今後どのようなことが起きてくるのでしょうか。既に同様の法が施行されている米国や欧州各国では「本当かな?」と思うことがいろいろと起きています。オリンピックにおいては、生物学的な男性で、心は女性としての「性自認」をしている選手が、女子重量挙げの種目に出場しました。
今後こういう事例が増えてくると、心は女性だと「自認」していたとしても、生物学的には男性の筋肉を有している選手たちが女子大会に出場することになります。これに対しては、他の女性選手が不利になるという指摘もありますが、皆様はどう思われるでしょうか。
■ 今後の趣旨説明
今回は導入ということで、日本における法律の成立過程、言葉の定義、起こり得る問題などを書かせていただきましたが、次回以降は、表面に現れているさまざまな現象ではなく、分断の経緯や背景を理解すること、聖書が何をいっているのか(何をいっていないのか)という点を深堀りしていきたいと思います。
今回、日本のLGBT法の成立過程に疑問があるのは確かですが、だからといってLGBTの方々の「理解の増進」に反対しているわけではなく、むしろその逆です。その点は青山氏も同様であり、彼はむしろ差別されてきた方々と共に歩んできたと自負されています。私も「理解の増進」に努め、建設的で和解的なコラムを、聖書の記述に沿って書かせていただきたいと思います。
次回以降、なぜこの問題がイシューとなるのかについて、キリスト教との対立の歴史、当事者の生の声、ゲイ神学などについて書かせていただき、何より真正面から旧約聖書と新約聖書の本文に取り組んでいきたいと思います。
今回のコラムは、クリスチャンではない方にも、ぜひとも読んでほしいと思っていますので、「いいね」「シェア」などに協力していただけますとうれしいです。聖書を知らなければ、表面的にトイレの運用方法などの対処をしたところで、イシューの根っこは見えてきませんし、欧米の方々がなぜこのイシューにここまで真剣に取り組んでいるのかも、絶対に分からないからです。
日本の諸教会にとっても、これは放置できない事柄であり、どのような立場を表明するのかというのは、喫緊の重要事項です。私などよりも聖書を熟知している方々も多くいらっしゃいますので、私のコラムは一つの参考程度に見ていただき、一緒に考える機会にしていただければと思います。
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