そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください」・・・彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」(創世記19:1〜5)
同性愛に関する聖書の記述の中でも、とりわけ有名なのが上記のソドムの物語です。今日はこの箇所に注目していきたいと思います。このロトという人物は、有名なアブラハムの甥(おい)であり、ソドムという町に住んでいました。
しかし、この町の人々は堕落し切っていました。そしてこの町の退廃ぶりを知るために、神様は2人の御使いを送りました。そうしたところ、ソドムの人々は集団でロトの家にやって来て、彼らに性的な暴行を働こうとしました。
結果、神様は「彼らの罪はきわめて重い」と判断され、この町は火と硫黄で焼かれてしまいます。
このような箇所からソドムの罪は同性愛者であると理解されるようになり、「ソドミー」という「不自然」な性行動を意味する用語も生まれました。そして「ソドム的な罪=同性愛=神様が滅ぼされる」というような単純な図式が出来てしまい、同性愛の方々を差別することや迫害することが正当化されてきてしまったのです。
それでは私たちは、ソドムのことをどのように受け止めればよいのでしょうか。
■ 歴史的背景!?
マシュー・バインズ(Matthew Vines)という方がいます。『ゴッド・アンド・ザ・ゲイ・クリスチャン(God and the Gay Christian)』の著者であり、LGBTの方々が教会へ参加するのをサポートしている非営利団体「ザ・リフォメーション・プロジェクト(The Reformation Project)」の創設者兼事務局長です。この方がLGBTと聖書に関して詳しく解説されている動画があり、現在120万回以上再生されています。この方は以下のように解説しています。
古代では男性同士による輪姦は、屈辱の一般的な戦術であり、戦争時の攻撃とその他の敵対の意味合いを含みます。それは、性的指向や興味とは全く関係のないことです。ソドムのポイントは、客人に恥をかかせることと征服することにあったのです。
確かにこの時代は、すぐ隣の国々との間に争いが頻発していました。ソドムの町も他の国に襲われて、財産も人々も全て他国に略奪された苦い経験がありました(創世記14章)。今回の話はそのすぐ後の出来事ですので、ソドムの町の人々が他国の人に対して敵対的な輪姦をして、精神的に屈服させようとしたという説は興味深いと思います。
■ 聖書を背景に聖書を読む
しかし、注意も必要です。といいますのも、アブラハムの時代のパレスチナの風習に関して、旧約聖書以外の文献というのはほとんど残っていないからです。逆に、旧約聖書には圧倒的な量の記述が保存されていますので、古典といわれる書籍の多くが、旧約聖書の影響を受けています。
例えば、民族学の学者などが聖書の記述に依拠して古代パレスチナの風習を解説する本を書き、現代の神学者たちがその本に照らして聖書の内容を再解釈してしまう可能性があるのです。今回の彼の説に関していえば、出典が記されておらず何ともいえませんので、そういうこともあるのかもしれないなという程度に留めておかれたらよいと思います。
それでは、私たちはどのような背景や文脈を考慮して聖書を解釈すればよいのでしょうか。基本的には「他の聖書箇所に照らして読む」というのが最善になると思います。聖書以外の文献を調べなくても、聖書を読めば当時の時代背景、文化や風習を十分に読み解くことができるからです。
マシュー・バインズさんも、基本的には聖書の記述をもとにゲイ神学を展開しています。彼は基本的なソドムの罪については、高慢と貧しい者たちへの無関心であったとし(エゼキエル16:49)、新約聖書(ユダの手紙)の中ではソドムの性的な罪が指摘されているものの、それは集団的な「強制レイプ」に関するもので、愛のある同性愛関係に対しては何も関係がありませんと解説しています。
■ 御使いは男性なのか?
彼の説の是非に関しては、今後も引き続き新約聖書の記述を読みながら考えていきたいと思いますが、ここで複眼的な視点を持つために、一つ考察が必要な点があります。それは、そもそもソドムの町の人たちが暴行を働こうとした御使いたちは、男性だったのかということです。
なぜこの点を考えるかというと、もし男性でなければ、少なくとも同性愛ではないからです。御使いの性については、新約聖書の中でイエス様がこのように証言しています。
人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マルコ12:25)
イエス様は、ここで霊的な世界の実態について、ヒントになることを2つ教えてくれています。一つには、天の御使いたちは、中性的(無性的)な存在だということです。
そして二つ目は、私たちもまた死んだ後は、そのような存在になるということです。さらにいえば、私たちは異性愛だ、同性愛だと議論をしているわけですが、それらは私たちがこの地上(肉体)にいる間だけのことであり、死者の復活に際しては(つまり私たちの存在の本質「霊魂」においては)、性という概念はないということです。
ともあれ、冒頭の事件に話を戻しますと、御使いは中性的(無性的)な存在ですので、男性のように見えて同性愛的な暴行を働こうとしたのか、もしくは美しい女性のように見えたのか、はたまた中性的で正体不明の存在だと感じたのかもよく分からないのです。
■ 警告(教訓)としてのソドム
私たちに分かることは、結果としてソドムの町が罪深い町(人々)であるとされて、天からの火と硫黄によって滅ぼされてしまったということだけです。なぜこのような恐ろしい出来事が聖書に記述されているのでしょうか。よくアニメや漫画などでは伏線回収というようなことがいわれますが、その理由を一緒に考えてみましょう。
愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。(ユダ1:3、4)
まずは、新約聖書のユダの手紙においてソドムの罪と滅亡が強調されているのですが、その背景として、ニコライ派やグノーシス主義などの存在がありました。彼らが教会に、ひそかに忍び込んで来ていたので、それらの教えに対抗して信仰の戦いをし、敬虔な歩みをするよう警告する必要が生じました(1コリント10:11参照)。そしてその流れの中で、ソドムの町が滅んだことを教訓としなさいと書かれているのです。
これは新約時代の例ですが、旧約聖書においても罪深い生活を続けていると、ソドムのようになってしまうぞという警告として、ソドムのことが繰り返し言及されています。つまり、ソドムの事件は聖書全体の中で、警告や教訓としての役割を担っているのです。
■ ソドムを裁く者が裁かれる
あなたの妹は、その娘たちといっしょにあなたの右に住んでいるソドムである。あなたは、ほんのしばらくの間だけ、彼らの道に歩まず、彼らの、忌みきらうべきわざをまねなかったが、ついにあなたのすべての道において、彼らよりも堕落してしまった。わたしは誓って言うが、――神である主の御告げ――あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。(エゼキエル16:46〜48)
私たちは自分のことを棚に上げて、自らを正しい者の立場に置き、他の人やグループを断罪することが多々あります。イスラエルの民も同様であり、ソドムを悪いうわさの種にしていました(エゼキエル16:56)。
しかし主は、全ての民(人)の創造主(親)ですから、そのような態度に対して心を痛められます。そして、主は裁く側であったイスラエルの罪を指摘されました。「裁く者が裁かれる」これは聖書が教えている原理原則です。イエス様もこのように言われました。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。(マタイ7:3)
■ ソドムと福音
主は裁く者を裁かれる方ですが、同時に神に立ち返る者をいつでも受け入れてくださるお方です。罪の代名詞のようなソドムも、純血を保てなかったサマリヤも、彼らに対して後ろ指を差しながら結局は誰よりも堕落してしまったイスラエルも、全ての人をご自身のもとに立ち返らせると主は言われます。
わたしは彼女たちの捕われ人を帰らせる。ソドムとその娘たちの捕われ人、サマリヤとその娘たちの捕われ人、また彼女たちの中にいるあなたの捕われ人を帰らせる。(エゼキエル16:53)
そして、ここで一つの「悟り」が必要なのですが、これは他の誰のことでもなく、私と皆様のことだということです。私たちもソドムと同様に、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う者でした。そのくせ、イスラエルと同様に、自分を正しい者の立場に置き、他の人やグループを悪いうわさの種として断罪するような者です。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――(エペソ2:3〜5)
これが、聖書に啓示されているアメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)です。神様は、私たちが正しい人だから受け入れてくださるのではありません。ソドムもイスラエルも、問題があるにもかかわらず受け入れてくださるのであり、私たちが罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださり、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったのです(ローマ5:6〜8参照)。
ですから、ソドムの物語は誰かを断罪するためではなく、以上のような文脈(神様の心)に沿って読まれるべきなのです。
■ おわりに
それでは、私たちは神に赦(ゆる)されているのだから、どんな罪を犯しても、何をしてもよいということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。一方的に神に愛され、赦された者たちは、罪から離れたいと自ら望むようになるからです(ローマ6:14、15)。
それでは結局、同性愛について聖書はどのように結論付けているのでしょうか。新約聖書の先ほどのユダの手紙において「ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた」(ユダ1:7)とあります。次回以降、この「不自然な」という言葉に注目して、御言葉をさらに深堀りしていきたいと思います。
最後に一言付け加えて終わります。主は、ソドムのことを「あなたの妹」と表現しています。ですから今後、私たちが誰かを断罪したくなったとき、主にあって、その人は私たちの「妹」「弟」「家族」であるという意識を持ちましょう。
悪いところを正さなくてはならないとしても、犯罪人として裁くのではなく、妹(家族)として包摂する心を持つことを主は望んでおられるのです。
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