不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(52)
※ 前回「詩編の味わい―結論を見いださない何かが大事なのだ(その2)」から続く。
凱旋門は見たことないが
詩編24編に、「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ」という言葉が繰り返されているが、「うなだれた城門」と表現すれば、これは現代人の姿と合致するかもしれない。もともと城門というのは、本来的には王を迎え入れるためのものであって、派生的な意味として兵士や民が出入りする場所ということになる。ローマ帝国時代の衛星都市の遺跡がアフリカにあるのだが、そこには見事な凱旋門が再現されている。いつ来るか分からない皇帝のために、あるいは将軍たちが凱旋するために、城門が建設されているのである。
そこは総人口が3万人に満たない町である。つまり、日本の田舎町を想像してほしいわけだが、その町の入り口にパリの凱旋門がおっ立っていたら、さぞびっくりするであろう、ということだ。しかし、そういう景色が当たり前の時代があったわけだ。
当然のことながら、皇帝や将軍よりもっと重要な方を迎え入れるための門もあった。大抵は凱旋門が同時にその役割を果たしていたと思われるが、とにかく神を迎え入れる城門というのは、その町の「命綱」なのだ。
にもかわらず、わざわざ私は「うなだれた城門」と表現したわけであるから、それは大いに失礼なことであろう。エルサレムには幾つかの城門があったはずだが、神がお通りになるための特別なものがあったかどうかは知らないし、興味もない。詩編が語るのはもっと比喩的な意味の城門だからである。
感覚が大事
当然のことだが「うなだれた城門」という表現は詩編には出てこない。詩編はただ「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ」と語っているだけだ。「うなだれている」というのは私の解釈だ。城門とは、ただ城に穴が開いている部分ではない。城門の部分は多少なりとも装飾をこらしているのだ。つまり、準備を整えて誰かの凱旋を待っているのが城門なのだ。その城門が頭をがっくりと垂れ、まるでうなだれているかのようだとしたら、どうであろうか。
城門が神を迎え入れる場所なら、それはつまり、神を受け入れるわれわれの姿勢か、あるいはその準備が比喩されている。長い間、皇帝や将軍を迎え入れることのない凱旋門は、奇麗に飾られることもなく、もしかしたら所々剥がれ落ちている状態かもしれない。長い間、神を迎え入れないわれわれ人間の心も同じような状態であろう。
まあ、人間に神が到来するとしたら一体どこを通ってくるのか分からないが、目や耳や鼻や口や皮膚や心やら、五感や六感を総動員して受け止めるということになろう。見るだけではダメだ、聞くだけではダメだ。においも、味わいも、肌感覚も大事。そして何より霊感だ。つまり霊性の出番である。
神アンテナを立てよう!
神の人への到来は全人的な事柄なので、どこか特定の場所に限定されるわけではない。それでも神を迎える入り口というものを、われわれは意識すべしということになるのではないか。まあ、ボケーッと生きていてもよいのだが、その一方でアンテナの1本くらいは掲げておかないといけないのだ。六感総動員というのは修道士に任せておくとしても、われわれのような信仰的庶民も「まるっきり何もしない」というのはダメなのだ。
うなだれたままでよいのだ、つまり、人間は罪人なんだからただ頭を垂れているしかない、と言うなら、それは極論というもの。そもそも罪人であるという自覚はどこから生まれるのか。聖書に書いてあるからそれが人間の現実になるのか、そうではないのだ。それなら絵に描いた餅そのものだ。われわれが罪人であって、われわれが本当の意味で頭を垂れて、ただ神にのみ救いを求めるとしても、その過程というものが大事なのだ。そのためには、われわれは何がしかの自己啓発のようなことをしないといけないと思う。自己啓発という言葉そのものは嫌いだが、まあ、「何かしろよ」ってことだ。
そういう意味において、詩編は比喩的であっても、「城門よ、頭を上げよ=神の到来に備えよ」と言っているのだと思う。一説によると、エルサレムには12の門があったらしいが、その中の一つくらいは「神のため」に用意をするという配慮を「自分自身に置き換えてみる」必要があるのではないだろうか。
実は六感には知恵は含まれない。また、知恵とは理性で感じるものではない。理性というのは、あくまでも六感で捉えたものを整理するだけなのだ。だからわれわれは、神についての知恵を求めることに躊躇(ちゅうちょ)してはならないのだ。理性的であろうとする前に、自分自身の城門を開いて神を迎え入れ、六感と知恵を総動員して神を味わうという気持ちを持たねばならないと思う。どうであろうか。(続く)
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