不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(51)
※ 前回「詩編の味わい―結論を見いださない何かが大事なのだ(その1)」から続く。
謙遜を利用してはならない
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑(くず)、民の恥」(詩編22編7節)。こんな言葉は簡単には書けないものだ。せいぜいが心の中で思い浮かべるくらいである。まあ、口にすることはあるかもしれないが、文字として残すのは遠慮したい。とはいえ、われわれは時としてこのような言葉を利用して謙遜を演じることがある。それは美徳だろうか。へりくだりを装うのは正しい生き方であろうか。
あえて自らの汚点を誇りがちになるのが人間ではあるが、それを常とう手段として用いるにしても、それも程度というものがある。私も時々、自らの黒歴史を用いて語りたくなる人間であるから、その気持ちは理解している。
「わたしは虫けら、人間の屑」という表現はどうだろうか。自己卑下というのは、本気になって本当のことを言ったり書いたりしないと痛い目に遭う。「えっ」と思われるかもしれないが、はっきり言って自己卑下というか、自虐というのは「盛り過ぎる」と反感を買うものなのだ。本当にえげつないくらいの悪行をありのままに伝えるなら、相手も我慢をしてくれるだろうが、自慢げに黒歴史を語られてもなぁ〜と思うのだ。そういう意味では私も気を付けたいと思った次第である。
イエスに深く関わる詩編22編
さて、詩編22編はイエスが十字架の上で語った言葉とされるが、それでもそれは最初の言葉だけ。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)と。この一言で、イエスは詩編22編全体を語ったのだと解説されるのであるが、果たしてそれはどうであろうか。疑問に感じる人も多いだろう。
実際のところ、それらしい言葉を発したのであろう。イエスの十字架に立ち会っていた人々が、イエスが詩編22編を語ろうとしたのだと伝え広めた、そういう理解はあり得るかもしれない。よく言われることであるが、詩編22編は神への讃美で終わっていて、特に最後の節は「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え・・・」となっている。なるほど締めの部分としては穏やかである。ならば十字架のイエスが自らの死において伝えたかったことは、詩編22編の最後の部分であるというのは納得できる。
しかし、それとは真逆のことを考える人もいる。そもそも「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉は何も特別なものではない。絶望の中に立たされた人の口から自然と湧き上がってくるものだ。だとしたら、十字架の上のイエスは絶望の中で死を迎えた人の絶叫であると解釈されるとしても、それは自然なことかもしれない。
実のところ、私にはさっぱり分からない。イエスは絶望の中で息を引き取ったのか、それとも通説のように詩編22編全体の精神を語って死んだのか、どちらであろうか。
私はその点についてあまり考える必要はないと思っている。キリスト教は神の子イエス・キリストの「死に様」に関わる宗教ではないからだ。人となった神の子が「死」を打ち破って復活する。それがキリスト教の神髄であるならば、イエスが死を迎えたときの心境について、あれこれと考え込んでしまうのはよろしくないと思うのである。
「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と語り始めた人がいて、その途中で「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」と付け足しつつも、最後には「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え・・・」と、うまい具合に締めくくっているならば、それはそれで立派に完結しているように思う。
イエスの死は重い
とはいえ、私がどうしても気になるのが、「虫けら、人間の屑」という部分である。7節に続く部分はこう書いてある。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」(8節)。なるほど、こっちの方がイエスの十字架の場面にふさわしいかもしれない。そういう意味でイエスは、「わたしの神よ、わたしの神よ」と語り始めながら、この8節までを何とか口にしようともがいていたのかもしれない。
事実として、十字架というのは虫けら同然に殺す道具だし、そばで見ている人々の多くは人間の屑が殺されたという思いをするのであろうか。実際のところ、現代社会において処刑に立ち会う人はほとんどいないから、そういう場所で何をどう感じるかは全く分からない。私は絶対に立ち会いたくない。あまりに痛々しくて、直視できないだろう。人が処刑される場面というのは、歓喜できるようなものではないと思うのが普通の精神である。
どんな極悪非道な人間がいたとして、その処刑を喜んで拍手喝采をすべきだとしても、実際のところはどうであろうか。もしかして、そのような場合は歓喜しているように演じなければならないのかもしれない。処刑場に動員される人がいたとしたら、それこそが悲劇である。
もし本当に十字架の上でもがき苦しんでいる人がいて、その人物を辱めるような人間であるなら(実際にそのような人間がいたことを福音書は報告しているのであるが・・・)、それこそが「虫けら、人間の屑」ではないか。そこにいた人々の多くが、イエスが神の子であるとは知らなかったとしても、一人の人間の苦しみに対して同情しろとは言わないまでも、その苦しみを考えず、その苦しみを見て喜ぶのだとしたら、それこそ「お前は本当に人間なのか」と問われるのではないだろうか。
イエスが神に対して「わたしをお見捨てになるのか」と口にしたのは、単に体の苦しみからではなかっただろう。一人の人間が傷めつけられ、殺されていく、その現実を前にした人間の心のなさというか、心の冷たさというか、そういうことからではなかったのか。そんなことを感じている。もし、われわれそのものが、「虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」であると、イエスから告発されているとしたら、どうだろうか。私にはとても重い言葉となってしまう。
どのように共感できようか
善人に共感するのは容易であるし、病者に対しても、破産者に対しても、苦悩の中に生きる人に対しても、そうであろう。その相手が仮に虫けらのような人間だとして、人間の屑だとして、それが何だろうか。民の恥さらしだとして何だろうか。その人の人生に共感はできなくても、さげすんで笑い者にする必要はないのだ。
どんな人間も痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいのだ。何者であってもそれは変わりがない。苦しんで殺されるのが当然と思われる人間はいるだろうし、そのように思ってしまう人の心も承知している。それでも私は問うのである。いや、あえてイエスから問われていると私は言おう。極悪非道な者の死を神が悲しんでいないといえるか。そのような場面に出くわしたとして、あなたはこれで良かった、良かったと思ってよいのか。
処刑が社会秩序に必要だというなら、私はそれを受け入れよう。しかし、私は自戒しつつ言おう。誰かがもがき苦しんで死んでいく場面で喜べるというなら、その人は、神の子が十字架の上で死んでいく姿を、そして、その死を乗り越え、「死をもって死を滅ぼすキリスト」を魂の奥深くに感じることができるのかと。そんな冷たい心を抱くよりも、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」と口にできる方がずっとよろしいのではないか。他者をあざけるくらいなら、自虐に走った方がずっとよいではないか。(続く)
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