不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(53)
※ 前回「詩編の味わい―結論を見いださない何かが大事なのだ(その3)」から続く。
再び詩編22編に思う
イエスは、詩編22編の言葉を口にしながら息を引き取った。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)。これは、詩編22編2節にある言葉である。マタイ福音書によると、イエスがこの言葉を口にしながら絶命したとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたという。垂れ幕は神殿の中で、至聖所(神の国を象徴しているのであろう)と、そうでない場所を分けるために用意されていたものである。
至聖所に入ることができるのは大祭司だけで、それも1年に一度だけと定められていた。それほどに特別な場所であったわけで、それは象徴的な意味を超えて、いわばユダヤ人、特にエリートにとってはまさに神の臨在の場そのものであったわけである。つまり、至聖所には、神の独占的な所有を意識付ける働きがあったということだ。
その垂れ幕が破れたのだ。ユダヤ人エリートによる神の独占に終止符を打ち、その機能を無効化したのが、イエスの十字架であったといえるのではないだろうか。
人間が神を特定の場所に囲い込むことはできない。いや、むしろ、こう言うべきかもしれない。特定の場所に神を囲い込んでいるなら、その神も、そのようにして特権意識を持っている人間も、「死んでいるに等しい」のであると。正教徒は「ハリストス(キリスト)、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と歌う。神殿の垂れ幕が裂けたというのはそういう意味であろう。
マタイ福音書の不思議な描写
次に地震が起こり、岩が裂け、墓が開き、眠りについていた聖なる人々が生き返ったと、マタイ福音書は告げる。何とも不思議な表現である。当時の墓は横穴式だったので、岩場に掘られていたのであるが、その岩が裂けたと書かれている。イメージとしては、地面からうにょうにょとゾンビが湧いて出たような風景ではない。聖なる人々が横穴式の墓から出てくるのであるから、当然に起立しているに違いない。神の前での立ち姿を想像させる。
その人たちはイエスの復活の後に墓から出てきて、聖なる都に入って、多くの人々に現れたという。ここで注目したいのは、聖なる都と書かれているが、それが具体的にエルサレムであるとは断定されていないことだ。また、墓の中から出てくるタイミングは、あくまでもイエスの復活の後である。この点はしっかりと把握しておきたい。聖なる人々の肉体的な復活があったとしても、都の人々との交流の回復というのは、あくまでイエスの復活の後のことなのだ。
マタイが語るキリストの出来事
聖なる人々というのは、どういう人々なのか。それは、神の義のために命を惜しまなかった人々ということだろうか。マタイ福音書が書かれたのが紀元45年ごろか、そうでなければ80年くらいか。どちらにしても、マタイはある程度はキリスト教殉教者を思い浮かべながら書いたという考えにも一理あるように思う。
イエスの復活というものを、われわれは時間軸においては瞬間的な出来事として考えてしまう。イエスが復活の後しばらくして天に昇るというのは、教理的な約束事なので、それを批判することは避けよう。しかし、マタイ福音書的な物言いをすると、イエスは復活の後、「世の終わりまで共におられる」存在だ。見える姿では昇天したとしても、現実的には復活のキリストが不在になることはない。われわれはこの世において、「神も仏もない」などとは口が裂けても言ってはならないのだ。
そういう意味で、マタイが描いた聖なる人々が墓から出てくるというのは、瞬間的な、つまり一時的な事象ではない。また、それが肉体の復活という意味合いを含みつつも、本義は聖なる都での信仰による交わり、つまり「聖徒の交わり」の回復であるということは明白なのだ。キリストの教会という新しい聖なる都において、生ける者も死ねる者もキリストによる交流が生まれる。この不思議こそが、キリストの十字架とそれに続く復活が生みだした具体的な姿なのだ。それが、マタイの描くキリストの出来事である。
マタイの思いに共感せよ
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの叫びに対して、神が実現させた世界というのは、神殿の中に隠されていた至聖所の廃止であり、墓に象徴される死の壁の破りであり、キリストの復活に伴う死者の復活であり、生ける者と死ねる者とが共にキリストを礼拝するという聖なる交わりであり、その聖なる交わりは、エルサレムから世界中に拡大されていることではないかと思う。
というわけで、詩編について、特に詩編22編について結んでおくことにしよう。われわれ人間は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と日々問いつつ、また、時には自分自身を虫けらであり、人間の屑(くず)と卑下せざるを得ない。それはとても悲しいし、やるせない。その人間の無情を十字架上のイエスが代弁したとして、またその思いを持って生涯を終えてくれたとして、それは確かにわれわれの慰めではある。それがイエスの十字架の思いであるなら、われわれは共感する。
詩編22編の結びの言葉は、まさにマタイ自身の告白のように感じる。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」。マタイは確かに聖なる都において、キリストの名において墓から出てきた聖徒たちと、今を、そして未来を生きるわれわれが、キリストの御名による「信仰の交わり」を持ち続けるのだという確信を語っているのである。(終わり)
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