米首都ワシントンで2日、第71回国家朝餐祈祷会(英語)が開かれ、米国キリスト教会協議会(NCC-USA)のバシュティ・マーフィー・マッケンジー暫定会長兼総幹事がメッセージを伝えた。マッケンジー氏は、聖書が語る「隣人」について考察し、イエスが聖書の中で示した愛、慈悲、思いやりをもって行動するよう出席者に呼びかけた。
マッケンジー氏は、ルカによる福音書10章にある「善きサマリア人」の物語を中心にメッセージを語った。
イエスはこの箇所で、追いはぎに襲われ、殴られ、半殺しにされて道端に放置された旅人の例えを話した。例えでは、旅人の近くを、ユダヤ人の祭司とレビ人が通りかかったが、2人ともその旅人を避けていった。しかし、サマリア人は立ち止まって、その人を助けた。
「(サマリア人は)旅人の人間性を見たのでしょうか。彼が旅人の人間性を見たとき、彼は自分の人間性を見たのです。恐らく私たちは、自分自身の人間性と、他人の人間性を見る必要があるのです」と、アフリカンメソジスト監督教会(AME)初の女性監督であるマッケンジー氏は語った。
「(旅人は)今、あなたの隣に座っている人かもしれません。私たちが自分自身を隣人として認識するまで、このような愛を示すことは難しいことを、イエスは知っていたのではないでしょうか。それ(隣人としての自己認識)は、私たちが受動的な聞き役から能動的な関与者になるのを助けるのです」
この例え話の最後に、イエスは聞き手に対し、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語りかけている。
マッケンジー氏は、人々が互いを隣人として本当に愛し合った場合、どのような人生になるかを想像するよう出席者に問いかけた。そして、パウロがコリントの信徒への手紙一13章で述べているように「愛」の定義について語った。
「これは、私たちが自分たちの命、自由、人間の尊厳の維持を無視するということではありません。これは、公共の場で愛を示すために、喜んで重荷を負うことを意味します」
「この21世紀に、もし私たちがそのように行動し、行って、同じようにしたらどうなるでしょうか。もし私たちが文化的な障壁を乗り越え、道端で心の傷を抱えた人々に公共の愛の模範を示すとしたらどうなるでしょうか。もし私たちが、教室で修復的な愛と実際の具体的な方法を示すという困難な役目を引き受けたら、どうなるでしょうか」
マッケンジー氏は、全ての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっていること、また、ある人が他の人より価値があるわけではないことを伝え、良い変化をもたらすには、団結と個人の責任の両方が重要だと強調した。
「一人でも多くのことができますが、ビジョンと声が一つになれば、もっと大きなことができるのです」
マッケンジー氏はまた、「公共の場」で愛を行い、慈悲を示し、早く立ち直ることがもたらす力を強調した。
「私たちは完璧である必要はありませんが、姿を見せなければなりません。この場には、それを実現するための十分な力があります。冷淡よりも思いやりを、競争よりも協調性をもって共に歩み、そして、行って、(サマリア人と)同じようにするとすれば、それは世界に対してどんなに力強いメッセージとなることでしょう」
一方でマッケンジー氏は、例えに出てきたサマリア人と「同じようにする」ことは、神の力なしには不可能だとも語った。
「神の御座に入りなさいという、あなたへの招待状がここにあります。あなたが祈るとき、恵みと慈悲があなたを待っています」
「他の何ものも、あなたが悪夢のような状況に直面したときに立ち上がるのを助けてはくれません。近くに寄ってみてください。他の何ものもあなたを助けてはくれません。神は、あなたを待っています。神は、あなたが今まで経験してきた方法とは異なる方法で、神を経験することを望んでいます。神はあなたが想像する以上に、もっと多くをあなたのために望んでおられるのです」
「愛は、自分自身に対する私たちの見方に違いをもたらします。(私たちは)神の似姿として創造されたのです。神の愛は、私たちが苦しみにどう対処するかに違いをもたらします。神の愛は、不可能をどう扱うかに違いをもたらします。神にとって不可能はないのです」
米国の国家朝餐祈祷会は1953年から続く恒例行事で、毎年2月の第1木曜日に開催される。米スミソニアン協会の機関誌「スミソニアン」(英語)によると、当時のドワイト・アイゼンハワー大統領は当初、出席に慎重だったというが、米大衆伝道者ビリー・グラハム氏に説得されて出席を決めたという。以来歴代の現職大統領が出席するのが伝統になっている。
今年は、マッケンジー氏のメッセージに先立ち、ジョー・バイデン米大統領が演説を行い、6度のグラミー賞受賞経験のあるブルックリン・タバナクル合唱団が演奏を披露した。