人生に行き詰まりますと、ゲームのように人生をリセットしたいと思うものです。特に、今の時代のように社会が複雑化、多様化していますと、人の心も複雑化、多様化して、人間関係もリセットしたくなるでしょう。
聖書によれば、キリストの福音の中心は、死からいのちの世界へ新しく移されること、汚れからきよめの人生に新しくされること、死から不死の霊に新しく生まれ変わること、汚れたこの世を出て新天新地に入ることなどです。
1. 聖なる者と永遠
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10:11〜14)
祭司は毎日礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返しささげますが、決して罪を除き去ることはできませんでした。たとえ、一つの罪が動物のいけにえの血できよめられても、繰り返される罪を決して除き去ることができないという、罪人人間の現実です。
しかし、キリストは人間の罪のために一つの永遠のいけにえをささげられました。きよめ切れない人間の罪に対し、神キリストは、永遠のいのちを永遠のいけにえとしてささげ、永遠のきよめを成し遂げられました。
キリストは「罪を取り除くために来られた」(9:26)ので、働き完了の後、天におられる神の右の御座に着き、神と人との敵であるサタンがご自分の足台となるのを待っておられます。サタンに勝利した人が満ちるときです。
キリストは罪を行わずに十字架刑とされ、聖なる者とされる人々のきよめを永遠に全うされました。信仰により聖なる者とされる人々は、キリストの血による永遠のきよめにより永遠のいのちを得ます。福音が完成したのです。
2. 聖霊と律法
聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦(ゆる)されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。(10:15〜18)
聖霊が私たちに来られると、律法が私たちの心に置かれます。もはや神は私たちの罪と不法とを思い出すことはされず、罪のためのささげ物は無用となります。
3. イエスの血と生ける道
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(10:19〜22)
罪がない神キリストの永遠のいのちである血によって、信じる私たちも天の聖所に入ることができます。
律法の規定によれば、聖所もすべての器具も動物の血によって聖別されました。キリストはその犠牲の血により、私たちに不可能であった、まことの聖所に入るという新しい生ける道を設けてくださったのです。
私たちは、キリストの十字架の犠牲を思い続け、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、行いである体を御言葉により洗われたので、純粋な信仰と神に会う目的だけで主を礼拝するのです。
まとめ
キリストご自身がただ一度一つのいのちをささげた血により、私たちには、御言葉に聞き従う新しい生ける道が設けられました。
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:23、24)
神が望まれるのは、霊とまことをもって父を礼拝する真の礼拝者たちです。御言葉に聞き従うことにより、全き信仰と真心から神に近づき、真の礼拝者となる新しい生ける道が私たちに開かれています。
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