ある日を特別に考える人もいれば、どの日も特別だと考える人もいます。また、どの日も特別でないと考える人もいるでしょう。その日その日に意識することがあれば、むなしい人生と感じないと思います。
聖書では、ある日を特別に考えることは、神のご計画においてとても重要なことだと言っています。
1. 新しい契約
しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が」(ヘブル8:6〜8)
キリストは、律法よりも1)さらに優れた神の誓いにより天の御座に永遠に着座され、このキリストにより2)さらに優れた救いの契約が制定され、キリストはこの3)さらに優れた契約の仲介者となりました。
初めの契約である律法を誰も全うできなかったので、新しい救いの契約がキリストによって完成される日が来るとの預言が記されています。これは、紀元前500年の旧約聖書エレミヤ31:31〜34を引用しています。
キリストによって天地は始まり、神と人間と悪魔との関係性の中で歴史が刻まれてきました。人間は悪魔の誘惑に負け、神を裏切り、その罪により死に支配されたけれど、キリストにより人間が救われるための契約が啓示されました。旧約と新約の2つの契約です。
最初は、モーセを通して律法が啓示され、罪の赦(ゆる)しと救いに関するいろいろな規定が書き送られましたが、人間は律法の要求を誰も全うできませんでした。そこで、律法より優れた神の誓いによる新しい契約が聖書に啓示され、キリストの十字架により完成され、キリストの仲介によって人間の救いが達成されます。イエスをキリストと信じる信仰により皆救われるという、救いの新しい契約が2千年前に完成されたのです。
2. 古い契約
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。(8:9)
紀元前1500年に起こった、エジプトの奴隷だったイスラエル民族の奴隷解放後に、神がイスラエル人と結んだ契約は律法でした。しかし、彼らが契約を守り通さないので、あらゆる災難を神は放置しました。
そこで、この古い契約に欠けがあったので新しい契約を結ぶ日が来ると紀元前500年にエレミヤによって預言され、ついに、さらに優れた新しい契約を結ぶ日が紀元元年のイエス・キリストによって来ました。
3. 知るようになる
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(8:10〜12)
イスラエルの民が出エジプト後に古い契約を守り通さなかったので、その千年後のエレミヤにより新しい契約預言がなされ、その500年後のイエスの十字架により新しい契約が完成され、イエスをキリストと信じる者の心の中に聖霊により律法を書き入れることで、救いが達成されました。
信じるキリスト者の内の聖霊により、心に律法が書かれると、他の信仰者たちから「主を知れ」と言われなくても、神を知る生活をするようになります。
イエスをキリストと告白し、聖霊を心の中に住まわせるなら、律法が心に書かれ、神の存在を自然に感じるようになり、礼拝や祈り、聖書通読を通して神である主を知るようになるのです。
「彼らの罪を思い出さない」とある通り、私たちは罪によって災難の中に放置されることがないので、主キリストはいつも私を見捨てず、私たちは神を知り続けることができます。
まとめ
紀元前1500年の古い契約である律法は、私たちが罪や咎(とが)の中に住んでいることを教えますが、神の前に義であることを実現できません。そこで神は、新しい契約を紀元前500年にエレミヤに預言させ、紀元元年のイエス・キリストの十字架により完成させ、キリストが新しい契約の仲介者となり、今の私たちが救われるための救い主となられました。イエス・キリストが救いに至る門となり、救いに至る道となられたのです。
救いの本質とは、イエスをキリストと信じる者の心に神が聖霊を住まわせ、心に律法が書かれ、神を知れと言われなくても神の存在を感じ、礼拝や祈り、聖書通読を通して神を知るようになることです。
そして、私たちの救いが継続されるのは、私たちの罪が赦され、二度と神に見放されることがないためです。
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