ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(ヘブル6:1〜6)
人は生まれて成長し、大人になっていく過程で、子どもの日を楽しむ日々があり、次に、成長して大人になる日を夢見る時期があり、ついに大人になると、無我夢中で生活するようになると思います。個人差はありますが、人の精神的人格的成長段階を見ると、基本的に幼児期、子ども期、青年期、成人期、老年期があります。
同じように信仰の成長段階にも、幼児期、子ども期、成人期、成熟期、昇天期があります。
1. 初歩から成熟
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(6:1〜2)
「神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要がある」(5:12)状態ですから、キリストの福音の、初歩から先の成熟を目指そうということです。「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗い…手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なこと」とあるのが、キリストの福音の初歩で、神の言葉の初歩6つです。
福音の初歩とは、一方的に頂ける祝福、恵みのことで、努力や忍耐をあまり必要としないものです。1)「死んだ行いからの回心」とは、信仰によらない行いを悔い改めることによる祝福、2)「神に対する信仰」とは、イエスを神キリストと信じる信仰による義、3)「きよめの洗い」とは、イエス・キリストを信じ悔い改めることによる良心の清め、4)「手を置く儀式」とは、手を置く祈りにある祝福の力、5)「死者の復活」とは、信者が死後に復活すること、6)「とこしえのさばき」とは、再臨のキリストによる最後の審判での無罪で、これら6つが一方的恵みです。
2. 賜物と聖霊
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、(6:3〜5)
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり…みことばと…やがて来る世の力とを味わった」とある意味は、「真理の『光』により霊的目が開かれて、『天』の御国からの『賜物』を頂き、『聖霊』のバプテスマに『あずかる者』となり、『みことば』に働く神の力と権威を味わい、御国にある栄光の『力』を味わった」ということです。
神を知らず神を持たず世に生きていた私たちですが、イエス・キリストを信じた初期段階から御国の恵みを受け、1)目が開かれ真理の光を知り、2)御国に名が書き記され賜物を受け、3)救いの保証としての聖霊のバプテスマを受け、4)みことばに働く御力と権威を体験し、5)天にある栄光の富により必要が満たされる体験をします。
1)「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」(使徒26:18)とあるように、霊的目が開かれ、暗闇のサタンから光であるキリストの支配に移るのです。「あなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、…やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです」(1ヨハネ2:8)とあるように、真理はまことの光です。
2)「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とあります。信者の名が天に書き記され、天からの賜物の力が働くのです。
3)「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:14)とあります。聖霊は天からの賜物です。
4)「御子は…その力あるみことばによって万物を保っておられます」(ヘブル1:3)とあるように、万物に働く、みことばにある全能の力です。
5)「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)とあるように、天にある栄光の富をもって、必要のすべてを満たしてくださいます。
3. 堕落
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(6:6)
「キリストについての初歩の教え」を受けて、神の祝福と恵みを受け味わった人が「堕落してしまうならば…もう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」という、御国の福音に関する奥義があります。
「彼らは…神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだから」というのが滅びの理由です。復活した神の子をもう一度十字架にかけることが不可能なように、救いを体験したクリスチャンが堕落した場合、もう一度救う福音がないということです。堕落したクリスチャンは、福音に対して恥です。
救いの恵みを体験した人が堕落した場合、「もう一度悔い改め」に導く新しいキリストの福音がないのです。救いを得た人にとっては、信仰の成熟を目指すことだけが生きる道です。
まとめ
聖書にあるキリストの福音の初歩には、その人の信仰心や努力に関係なく一方的な恵みとして、死んだ行いから救われること、悔い改めによる良心のきよめ、手を置いて祈る祝福の力、信仰の義人が死後復活すること、キリストによる最後の審判での無罪などがあります。
また、これらの福音の初歩による恵みを体験したクリスチャンが堕落した場合、もう一度救い出すための新しいキリストの福音がないので、救いを得た人は、信仰の成熟を目指す必要があります。死から復活し不死を着たキリストが、もう一度十字架にかかり死ぬことが不可能だからです。
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