信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(ヘブル4:3〜9)
人が生活する中では、大きく見て2種類の休息時間があって、一つは休憩時間、もう一つは睡眠時間です。人は、休憩や睡眠による休息によって、肉体的精神的に安息を得て、疲労が取れたり不調が治ったり病が癒やされたりします。
聖書が言う安息とは、人生の最終到達点で得る平安と平和な世界のことで、簡単に言いますと、天地を造られた神が用意した天の御国に名が書き記され、ついに御国へ入れていただくことです。
1. 安息に入る
信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。(4:3〜5)
3章18、19節にもある通り、「わたしの安息に入らせない」と神が誓われたのは、「従おうとしなかった人たち」「不信仰」のためであり、信じた私たちは安息に入るということです。つまり、世の奴隷から解放されたクリスチャンたちの「不信仰による滅び」と「信仰による救い」のことです。
神はイスラエル民族を奴隷から救い出しましたが、40年の間、彼らは不信仰のため神の忍耐と力を試みたので、神は「彼らをわたしの安息に入らせない」と怒りをもって誓ったのです。
「すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と書かれていることから、すでに「わたしの安息」である御国は存在しています。神は、約束の地である神の安息に入るための御国計画を、創世の初めの7日目の安息日で啓示しました。
今の救いの時代では、イエスを信じ世の奴隷から救い出されたクリスチャンたちが、エジプトの奴隷から救い出された彼らのようでなく、御国を目指して信仰生活をし続けるなら、「信じた私たちは安息に入る」のです。
2. まだ残っている
こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。(4:6、7)
「安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかった」とあるように、出エジプトの民が不信仰で創世の初めに創られた安息に入れなかったので、入る人々がまだ残っていると言っています。
「神は長い年月の後にダビデを通して『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない』と語られた」とあります。今の時代でも「きょう」という日に、御声に聞き従う信仰によって安息に入る人々がまだ残っていると、救いの福音を啓示したのです。レムナント、救われるべき残された民のことです。
「『バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。』それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:4、5)
エリヤが神に対し、イスラエルについて「彼らはあなたの預言者たちを殺し、いま私のいのちを取ろうとしています」と訴えた後に神が答えた通り、バアルにひざをかがめていない、選びによって残された者がいるのです。
「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」(コロサイ3:5)。神よりも欲を優先する心が偶像崇拝です。
3. 神の民
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(4:8、9)
救いの福音がまだ残っていることを聖書から証明しています。モーセの時代から500年後のダビデの時代に、別の日のことを話されたのだから、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているという「救いの福音の継続」を示しています。
ダビデの時代から今の新約聖書の時代に、福音は継続しています。「もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」という戒めは、神の民に対する、滅びないための戒めです。
まとめ
- イスラエル民族だけが神の民であった時代が旧約聖書の時代で、今の新約聖書の時代は、イエスをキリストと告白し罪赦(ゆる)された人々が神の民とされる時代です。
- 今という別の日にも「もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」という不信仰による滅びへの戒めがあって、偶像にひざをかがめない、選びによって残された者のために、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている」という御国の福音があります。「信じた私たちは安息に入るのです」という救いの福音が、今の時代にも私たちに与えられています。
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