そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。(ヘブル3:1〜6)
人が生活するのに、家族や家は大事です。なぜなら、と言うまでもないでしょうが、たとえ家族と別居であっても、故郷を離れていたとしても、故郷に家族がいるから寂しくない。また、今は友人知人がいて家族のようで寂しくない。どこに住んでも家族のような人がいれば、住めば都ということです。
聖書では、イエスを信じる信仰により、クリスチャンたちは友人、神の家族、兄弟姉妹、御国にあって同国民という関係になります。だから、真のクリスチャンにとって寂しいことはないのです。
1. 大祭司
そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブル3:1)
「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(2:11)とあるように、御父の子であるキリストと、神の子とされた信仰者は兄弟関係になりました。不義なる人間が聖なるキリストと肉親関係になる、福音による聖別の奥義です。
また、「忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じように」(2:17)なられました。キリスト・イエスは「信仰の創始者」であり、私たちクリスチャンの信仰の手本です。クリスチャンのきよめは、キリストと兄弟関係になることです。クリスチャンが祭司の身分となったのは、神キリストが大祭司としての歩みを全うされたからです。つまり、人と同じように血肉を持って生まれ、人を罪から救うため十字架の死にまで従われたのです。
2. 神
モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。(ヘブル3:2〜4)
モーセは「神の家全体のために忠実であった」、イエスは「ご自分を立てた方に対して忠実」とあります。1)モーセは、神から遣わされた族長として、神の民族全体に忠実でした。2)イエスは、遣わした御父に対し忠実でした。遣わされた者であるモーセと、御子キリストであるイエスとの対比です。
「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つ」「イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしい」とあります。家よりも家主の方が称賛を受けるにふさわしいように、管理人よりも家主の子の方が栄誉を受けるにふさわしいのです。また、信仰により、それぞれが神の家を建てますが、天地万物の創造主だけが神です。信仰者と神との対比です。当然、聖書記者よりもイエスの方が栄誉を受けるにふさわしいのです。全てを創られた創造主だけが賛美されるべきです。
3. 神の家
モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。(ヘブル3:5、6)
モーセは、神に遣わされた人として、神の民を約束の地へ導くことに忠実でした。それは、旧約聖書を記述し、後に新約聖書で語られる救いの福音を証しするためでした。御子キリストは、今も神の家、神の民を忠実に統治しておられます。もし私たちが死ぬときまで、イエス・キリストへの確信と御国の希望を持ち続けるなら、私たちが神の家なのです。
モーセは、後に完成するキリスト・イエスによる神の家を証しするために、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、約束の地へ導きました。モーセは神から遣わされ、神の民を忠実に約束の地へ導きましたが、キリスト・イエスは御子として御父に忠実で、神の家を忠実に治めました。
もし、信仰者たちが主キリスト・イエスを確信し続け、御国への希望を持ち続けるなら、その信仰者たちが神の家、神の民です。キリスト・イエスが教会を通して統治してくださるのです。
まとめ
- 御父を一つに持つ、御子キリストと信仰者は兄弟と呼ばれ、神の憐(あわ)れみによって恥とはされませんでした。
- 信じる私たちは、キリスト・イエスによって統治されることを求め、喜ぶ人たちとなります。なぜなら御子キリストは、祭司となる信仰者のために御父に忠実に従い、忠実な大祭司となるため、血と肉を持ち十字架の死にまで従ったからです。
- キリストは、神の家を忠実に治められます。キリスト・イエスを信じる私たちこそが神の家であり、神の民なのです。
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