聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル2:11〜17)
今の時代は、イスラム自爆テロであったり新型コロナウイルスであったり、予想外の防ぎきれないような脅威が私たちを取り囲んでいます。私たちの心には「死の恐怖」があります。
聖書には、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がいいとあります。人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからと教えます。人の人生は、死に方で決まります。葬儀に参列した人々の声が「お金は残したけど、生き方がねー」「奉仕活動熱心だったけど、人格がねー」「出世したけど、家族が不幸ね」であれば、残念でしょう。反対に、「良い人だったね」「人格者だったね」「良い奉仕者でしたね」「家族に良くしてあげたね」であれば、その人の人生は良いものだったといえます。
1. 御名
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」(ヘブル2:11、12)
聖める方と聖められる者たちは、皆一人の御父を持っています。それ故に主キリストは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。キリストにより聖別されたクリスチャンたちは、キリストと同じ御父の子であり、キリストと兄弟関係にあり、御父の御名が知らされるのです。
故にクリスチャンたちは、教会でキリストと共に御名を賛美するようになります。教会はキリストの体ですから、クリスチャンたちが教会で御名を賛美するなら、キリストと共に御父の御名を賛美することになります。
2. 解放
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:13〜15)
「私はこの方に、望みをかける。見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、・・・イスラエルでのしるしとなり、不思議となっている」(イザヤ8:17、18)とあります。「キリストは、苦難の中で御父だけに望みをかけ、現れを待ちます。見なさい、キリストとキリストに与えられたクリスチャンたちは、イスラエルのしるしと不思議になっている」ということです。
キリストが御父に完全信頼したように、キリストに与えられたクリスチャンたちも、神に完全信頼して、神の民イスラエルのしるしと不思議になっているのです。神のいない私たち国民が、神キリストを得て御父の子たちとなる、救いの福音のしるしと不思議です。
「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように・・・お持ちになり・・・その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」。これこそが、罪から来る報酬である「死」からの救いなのです。
御国の子たちは、命の血と肉の欲とを持っているので、主キリストもイエスとして生まれ人と同じになり、全人類の罪の身代わりである十字架刑の死によって、罪と死を訴え続けている悪魔の死の力を滅ぼされました。
「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」とあるように、人間の最大の恐怖は、死んで人生が終わることです。悪魔に支配されている肉体の奴隷からの解放です。
肉体に支配されている私たちの罪を、悪魔が神に訴えて、私たちを死の奴隷にしています。故に、イエスをキリストと告白し、私の罪は赦(ゆる)されたと告白することで、私たちを一生涯死の恐怖につないでいた悪魔の死の力は滅ぼされ、私たちは悪魔と死の奴隷から解放されるのです。
3. 大祭司
主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル2:16、17)
「主は御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けてくださる」とあります。神は、忠実に働く御使いたちを助けるのではなく、不忠実で役に立たない人間たちを、信仰による義により恥と思わず兄弟とし、助けてくださるのです。
「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主は・・・兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」とあります。神の民の罪を憐(あわ)れむ大祭司となるため、主キリストは人となりクリスチャンたちと兄弟となり、神の民の罪を贖(あがな)うため、ご自身がいけにえとなられました。
大事なことは幾つもありません。神は、① 御子キリストの犠牲の死により、人を罪と死から救い、② 憐れみによって、人をキリストの兄弟とし、③ 愛によって、人を神の子とし、恥とはされませんでした。
まとめ
- 神は、聖書にある福音によって、私たちに救い主キリストを啓示し、信じるクリスチャンたちに御父を知らせ、キリスト者たちをキリストの兄弟とし恥とせず、神の愛によって御父の子としてくださいました。教会でキリスト者たちは、キリストと共に神を賛美し、父、御子、御霊と共に一つになります。
- 御子キリストは、私たち人間に血と肉があるので、同じになりイエスとして地上で生き、人間の罪の贖いのために十字架刑で死なれ、御国に御体を持ったキリスト者たちの大祭司として座っておられます。全てにおいて、主キリストは御父の御心に従い、その結果として御父の全てを相続しました。
- 信じる私たちは、悪魔の死の力に勝利し、死んで終わるという死の恐怖からの解放が起きます。信じる私たちも、キリストと共に、共同相続人です。
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