神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:10〜13)
生きていることの条件とは何でしょうか。生きているものとは、生物学的には増殖して生活しているもの、私の解釈では、見えるか見えないかに関係なく、意思表示のあるものと考えます。
聖書で言う、生きているものとは「神の御前に、生きていると見なされるもの」といえます。動植物はもともと、神がご自身の存在と栄光を証しするものとして創造されたので、全て御前に生きていますが、人は神と共に生きる存在として創造されたので、神を信じない人は生きていないと見なされます。
1. 安息に入る
神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(4:10、11)
神は創造の初めに天地万物を創り、安息に入ったとあります。御国創造が終わり、今の時代は御国に入る人を呼び集めているということです。
アブラハムの時代に、神の民を砂の数のようにすると約束され、収穫が始まりました。モーセの時代、ダビデの時代から、ついに私たちの時代まで御国の収穫は継続されています。ですから、私たちは今のチャンスを生かし、信仰に励みましょう。
イエスをキリストと信仰告白した人もいれば、福音を聞いただけの人もいます。皆が同じように神の安息に入るための生活をしていますが、不信仰な者は皆、御国に入れません。私たちはイエスをキリストと信じる信仰によってのみ、御国に入れます。
2. 神のことば
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(4:12)
「神のことばは生きていて、力があり」とあります。これは、「生ける神」という真理と「ことばは神であった」という真理が、私たちの内に同時に働いて起こる霊的な現象です。人はこれを誤解し、聖書のことばが知性に働いて起こる精神活動と考えますが、実は、聖霊が啓示した聖書のことばが知性に働いて起こる霊的活動であり、神の力が伴うものです。
神により啓示された御言葉には、私たちの考えや生活、精神的人格的な問題、思想や価値観に至るまで、その良し悪しを見分ける力があります。
生ける神のことばは、信じる者の内におられる聖霊により生きて働きます。これには全知全能の神の力が伴い、その人の生活だけでなく深淵にまで到達し、その良し悪しを判別します。
3. 弁明をする
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:13)
人は創造主を知ることができず、自分が神から隠れていると考えますが、神は人の全てをご存じです。ですから私たちには、本気で神と共に生きる決心が必要なのです。
「私たちはこの神に対して弁明をするのです」とあります。神は全てをご存じなので、人が神に対して弁明する最後の審判は、正当な裁きだということです。最後の審判における弁明の時のために、啓示された神のことばに従って物事の良し悪しを判別し、御国を目指しなさいということです。
まとめ
イエスをキリストと告白して救いに至る門から入り、日々の生活の中で遭う試練の中でイエスを告白し続ける者は、御国に至る道を歩み続けます。神は私たちを愛してくださり、生ける神、聖霊により御言葉の啓示を与えられます。もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならないのです。もし御声に聞き従うならば、御言葉は生きて働き、私たちの精神的人格的な深いところ、思想や価値観までを全てご存じの神によって、正しい生き方に導かれます。決して滅びることはありません。もし神に対して偽りがあるなら、いつか、全知全能の神の御前で弁明することになります。
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