さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14〜16)
人生には、必ず助け手がいて、親から始まり、兄弟親族がいたり、友人知人や先輩後輩、会社の同僚がいたりします。あまり親切がしつこいときは、大きなお世話というときもありますが、タイムリーな助けは、折にかなった親切といえます。
聖書では、助けることをとても重要としています。神の民や神の人を助けなかった人々が、神からの助けを受けられない呪いに遭い、今の時代までずっと悲惨な状況が続いている民族もいるくらいです。
1. 信仰告白
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。(4:14)
「さて」とありますが、前の13節には「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をする」とあります。私たちは、すべてをご存じの神によって啓示されたことばに従い、御国を目指すのです。
「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」と、祭司になった私たち信仰者を励ましています。イエスを神キリストと信じる私たちには、第一の天である大気圏と、第二の天である宇宙と、第三の天である天国を通られ、永遠の大祭司となられた神の子イエスがおられるのです。
神を礼拝できるのは神に選ばれた祭司だけでしたが、今の時代にはイエスをキリストと告白する者が祭司と見なされます。そして、すべての祭司の中から一人だけ選ばれた代表が大祭司です。神の子イエスは大祭司として神に選ばれ、すべての人の罪のいけにえとして十字架上で処刑され、死んでよみがえり、もろもろの天を通られ、第三の天に上げられました。
「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と教えています。イエスの犠牲の死によって、私たちのための御国の福音が完成されました。イエスの十字架の死に至る苦難は、私たちの信仰告白のために必要な犠牲でした。イエスはこれほどまでに私たちを愛してくださったのですから、私たちも愛によってイエスへの信仰告白を堅く保ちましょう。
2. 同情
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)
神キリストは、その在り方を捨てて人として生まれ、33歳まで人として生活されました。肉的な弱さを体験されましたから、私たちの弱さに同情できるお方なのです。肉的な弱さから自力主義への試みも受けましたが、神力に頼り、神を裏切る罪を犯しませんでした。
肉的な弱さとは、自分を慰め励ます肉欲の罪と、自分の苦難は自分が助けるという自己支配の罪による悪魔サタンからの試みのことです。悪魔の誘惑による、私たちの信仰への試みがあることを、イエスは地上で体験されています。ですから、信じる私たちの弱さに同情できる神は、唯一イエス・キリストだけなのです。
3. 助け
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)
神からのあわれみと恵みを頂いている間に、今という時の、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。イエスが神でありながら人の弱さによる誘惑を体験されたことで、神は私たちをあわれみ、私たちの弱さに同情し、御国の恵みを与え助けてくださいます。
ゆえに、私たちが熱心に神に祈るとき、恵みの御座である神の臨在に近づき、折にかなった助けを受ける奇跡を体験できます。信仰生活とは、熱心に祈って恵みの御座に近づき、折にかなった助けを受けて、私たちの必要が満たされ続けることです。
まとめ
私たちは肉なるもので、自分のために生きるなら、ただの動物であり、死ねば下に下ります。しかし、私たちのために十字架刑で死んでくださった大祭司イエス・キリストを信じるならば、私たちは祭司であり、神の子たちであり、死ねば天に上げられます。
もし今日、私たちが神からのことばを聖書から聞いたなら、心をかたくなにしないで従い、イエス・キリストを告白し続けましょう。そうすれば、神の恵みの御座に近づき、折にかなった助けを受けることができます。
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