まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル5:4〜10)
世界的にクリスチャンという呼び名が普及しておりますが、「キリストを神だと主張する人々」という自然発生的な時代背景があるそうです。
キリスト信者たちを聖書的に言うと「神に選ばれし人々」と言えるでしょうし、言い換えると「王である祭司の民」とか「キリストの弟子たち」とか「神の子たち」とも言い表せると思います。
1. 神に召され
まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。(5:4、5)
「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく」とある意味は、1〜3節の内容によると、大祭司は、1)神に仕える事がらを代表するため、多くの祭司の中から一人が任命され、2)人々と自分の罪の贖(あがな)いの働きをするが、3)この名誉は人の能力や選びによらないということです。
「アロンのように神に召されて受けるのです」と続きますが、モーセの兄アロンが、神の選びによってモーセと人々の仲介者となり、後に大祭司の名誉を得たように、大祭司となる名誉は神からの召しであるという意味です。
ただの土くれである私たちが、神に召されて祭司とされる名誉のように、大祭司として任命される者もみな、神の召しによるのです。
「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです」と結論付けていますが、神キリストが大祭司の栄誉を受けたのは、天の父がキリストを人の子イエスとして生み、イエスが神に従順したことで「アロンのように神に召されて受け」たということです。
聖書には「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ロマ11:29)とあって、新約聖書の時代の神からの名誉も栄誉も、旧約聖書の時代から変わることがないのです。賜物と召命において、偉大なのは神です。
2. 祈りと願い
別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。(5:6、7)
「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である」とあるのは、アブラハムの時代、王や祭司としての系図が無いメルキゼデクがサレムの王で祭司であったことを引用して、新約聖書の時代に、王や祭司としての系図が無いイエスが、神の召しで永遠の王で祭司となられたという意味です。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」とあるように、キリストが人の子イエスとして地上で働きをしている間、弟子たちに目撃されなかったが、激しい叫びと涙とをもって、特別な祈りと願いをささげた敬虔のゆえに、聞き届けられたのです。
もし私たちが、王であり大祭司キリスト・イエスを信じているなら、イエスがそうであったように、王であり祭司である私たちも、死から救うことのできる神に叫びと涙をもって祈りと願いをささげ、敬虔なクリスチャンを目指しましょう。
3. 従順
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(5:8〜10)
「キリストは御子であられるのに」「苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」とある意味は、神キリストは人々から仕えられる方でしたが、神と人に仕えるイエスとなり、イエスは苦しみによって信仰の従順を学び、死に至るまで忠実で完了した者とされたということです。
「彼に従う」「人々に対して、とこしえの救いを与える者となり」「メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられた」とある意味は、キリストは、1)従う信仰者に対し、永遠の救いの創始者となり、2)神によって、メルキゼデクと同様に、永遠に王である大祭司として認証されたということです。
キリストは、イエスとして生まれ生き死んだ信仰の従順により、完了した完全な者とされ、神により永遠の王である大祭司として認証され、私たちに永遠の救いを与える救い主とされました。
キリストは、神のご計画にある多くの苦しみによって従順を学び救い主とされ、イエスを信じる私たちも、試練の苦しみの中でイエスに従う従順により、永遠の救いを与えられます。
まとめ
- 神キリストは、祭司たちの中からただ一人選ばれる大祭司として神に選ばれ、アロンが大祭司として神から召されたように、キリストも神から召し出され名誉を得ました。
- 神キリストは、御父により人イエスとして生まれたことで、永遠の大祭司として召し出され栄誉を得ました。
- 神キリストは、サレムのメルキゼデクと同様に、王である祭司の系図に無く継承者もいませんでしたが、死から救うことのできる神に涙と叫びをもって願い祈り、その敬虔さによって聞き届けられ、永遠の王である大祭司とされました。
- 神キリストは、御父のご計画に従い、多くの苦しみを通られたことで従順を学び完全な者とされ、キリストを信じキリストに従う信仰者を、死から救い出すことができます。
- イエスをキリストと信じる者たちは、イエスのように苦しみによって従順を学び、永遠の王である祭司と見なされ、真のキリスト者となります。
- 真のキリスト者は、涙と叫びによりキリストに願い祈る敬虔さにより、死から救われ永遠のいのちを得て、神の子としての永遠の栄誉を受けることになります。
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