私たちの心には、いろいろな負い目があります。言い換えるなら、罪意識から来る弱みですが、もっぱら他の人々に危害や損害を与えたことによります。
聖書によれば、「罪から来る報酬は死です」とあり、先祖アダムの罪から死が始まりましたが、それは神に損害を与えた原罪のことです。人間に与えられた地上の支配権を悪魔にだまし取られたことで、神の被造物へ甚大な損害を与えました。
1. 罪のきよめとキリストの現れ
ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。(ヘブル9:23、24)
「ですから」とあります。これ以前の内容から、「幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。律法によれば、すべてのものは血によってきよめられ、また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦(ゆる)しはない」ということです。
つまり、地上の礼拝の規定である律法によれば、「いけにえの血で聖別されなければ、礼拝での罪の赦しはない」という意味です。私たちへの救いの福音は、いけにえの血で聖別されて実現するわけです。
地上の礼拝規定は、天の御国に似せて形作られ、人間を動物の血で繰り返し聖別しましたが、天の御国の礼拝規定では、真の天に入るために、さらに優れたいのちの血で聖別されなければなりません。
「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです」とまとめられています。
つまり、律法によれば、御国の模型である聖所に動物の血を持って大祭司が入ったが、大祭司キリストはご自身の血をもって天そのものに入り仲介者となられ、「今、私たちのために神の御前に現れてくださる」という、救いの福音です。
私たちが地上で神を礼拝し、ついに「天そのものに」入るためには、新約聖書に書かれている「キリストの血と、イエスはキリストと信仰告白する聖別」が、今必要だということです。いつ呼ばれるか分かりませんから。
2. キリストの苦難
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。(9:25、26)
神の民の救いのため、年ごとにいけにえの血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならないからです。
つまり、人間が罪を繰り返すので、律法では、大祭司が毎年繰り返しいけにえの血を持って至聖所に入りきよめましたが、大祭司キリストは、一度の苦難によってご自身の血をささげ、きよめを完了させました。
3. キリストが世に来られ
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(9:26〜28)
今の世を終わらせるご計画のために、キリストは、罪を取り除くいけにえとしてただ一度ご自身をささげるため、世に来られたのです。
第一に、キリストは世の初めに天地を創造されました。第二に、キリストは世の終わりのため、地上に来られ、ただ一度、罪の贖(あがな)いの血を流されました。人間の救いを完成させて、世の終わりの時代になったので、イエスをキリストと信じる者は、皆救われるのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげ、二度目は、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。
神の計画としての「今の世の終わり」とは、キリストの一度の死によって罪の贖いが完成した時代です。
人間には①一度死ぬことと、②死後に神の裁きを受けることが、世の初めの時代から決まっていて、キリストも、①人間の罪を負うため、一度目地上に来られ、一度死に、②今の世の終わりの時代に、救い主キリストを待ち望む人々のため、2度目地上に来られ、世の裁きを行われます。再臨のキリストによる救いです。
まとめ
世の初めに天地創造で人間が創造され、人間は神を裏切った罪で死に、キリストは人間の罪を取り除くため十字架刑で一度死に、救いを完成させ、イエスをキリストと信じる者はみな救われる時代が始まり、罪に支配されていた世が終わりました。
キリストは、天の御国の王座に着座され、救われるべき民の数が満ちるまで天に居て、もう一度地上に来るときは、世を裁き、キリストの再臨を望む人々を滅びから救い、新天新地である御国に招き入れます。
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