善きサマリヤ人のたとえ
「一般社団法人 善き隣人バンク」 の目指す行動モデルは、ルカの福音書10章に示される「善きサマリヤ人のたとえ」に示されています。この箇所は、傷ついた人を助ける模範として広く知られていますが、2千年前のイスラエルではこのサマリヤ人の取った行動は、人の限界を超えたあり得ないことだったようです。
ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。
(ルカの福音書10章30~36節)
人は律法を守る力がない
当時のエルサレムからエリコに下る道は、大勢の人々が行き交う、治安の悪い場所でした。強盗に襲われ、半殺しにされることも珍しくなく、たとえ、被害に遭った人を見つけても、自らの安全を確保しながら足早に通り過ぎるのが普通でした。
そんな現場に通りかかった祭司やレビ人も、見て見ぬふりをして通り過ぎます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という聖書の言葉(律法)を熟知している人たちでさえ、助けの手を差し伸べることができませんでした。そもそも人は、神様の与える律法を守る力を持っていないことを示しています。
ユダヤ人にさげすまれていたサマリヤ人
ここで、このたとえ話はあり得ない展開に入ります。当時、ユダヤ人はサマリヤ人(ユダヤ人とアッシリヤ人の混血)をさげすんでいましたが、一人のサマリヤ人が強盗に襲われた人を助けることになります。
しかもこのサマリヤ人は、危険を顧みずに寄り添い、応急手当をして自らのロバに載せ、宿屋に運んで介抱した後、宿屋の主人に支払いをし、追加の支払いの約束までして看護を託したのです。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」というイエスの問いへの答えは、言うまでもなくこのサマリヤ人です。
イエスはこのたとえ話を通し、サマリヤ人をさげすむユダヤ人を責め、真の隣人愛は差別や偏見を乗り越え、危険を顧みず、苦難にある人の善き隣人になる力を与えると示されたのです。
真の隣人愛は限界を超える
人は隣人愛の大切さを知っています。神様の似姿として造られた人ですから、神様の御旨にかなうことを実行したいと思います。しかし、危険を顧みず、自らを犠牲にして寄り添うことのできる真の隣人愛は、人の罪を一身に背負って十字架に死んだイエス・キリストだけが持っているものです。
ですから、私たちが真の隣人愛を示すことができるとしたら、それは私たちの内に住んでおられる聖霊(イエス・キリストの霊)の御業です。
そして、聖霊の御業には、いつも悪霊がさまざまな妨害を加えます。彼らは、この世界に隣人愛が満ちることを嫌い、私たちの無力さを徹底的に指摘します。
・時間がない、力がない、経済力がない・寄り添っただけで何の助けになろうか?・どうせ無駄なこと・最後まで助けられないならやめた方がいい・自業自得、助けは不要!など、妨害の声が心の中で響きます。
「善き隣人バンク」は、そんなあなたが神様の器として御旨に従えるよう、そっと背中を押します。共に祈り、共に時間を割き、あなたの優しさを支え、最後まで寄り添う力を備える隣人愛のネットワークを提供したいと願っています。
やがて、人の限界を超える天来の隣人愛がこの日本社会を覆い、イエス・キリストの香りが、愛する日本の隅々まで、満ちあふれますように…。
「善き隣人バンク」の働きに加わりたい方は、ぜひともご連絡ください。
◇