多くの祈りが積まれる日本社会
日本の中には多くの宗教がありますが、一般的な日本人は自らを無宗教と考え、信仰の対象については具体的な言及を避ける傾向があります。
それにもかかわらず、日本社会には日常的に多くの祈りが積まれています。葬儀に関わることは仏教、結婚式はキリスト教、それ以外の通過儀礼は神道を通し、また、墓、寺、神社、さらに自然界の太陽、巨石、大木などにも手を合わせて祈ります。また、公の場では大勢で黙祷の時を持ちます。
このような祈りを、偶像礼拝と考える人もいます。しかし、偶像礼拝者はある特別の偶像を神として崇拝しますので、対象を選ばず多くの場で祈れる日本人の傾向とは異なります。
また、日本には八百万の神があるので多神教だとよく言われますが、それらの神々は、聖書の伝える神様のような大きな力の源ではなく、祈りの姿勢を整える場を提供する役割を担っているように思います。
このような日本人は、意識しているわけではありませんが、実は、人の思いをはるかに超え、どこにでもおられ、祈りを聞いてくださる大いなる力の源、つまり創造主なる神様に向けて祈っているのだと私は思います。
祈りを向ける対象について言及を避けるのは、信仰心が乏しいからではなく、その対象が大いなる方であり、畏れ多いことを強く感じているからなのでしょう。そういう意味では、一般的な日本人の信仰は敬虔な一神教であるように思います。
キリスト教は排他的、独善的?
このような日本人に対し、キリスト教会は、偶像礼拝の罪を指摘するメッセージを長年送り続けています。
偶像礼拝が罪であることは、聖書に明確に示されていますが、一般の日本人は前述のように、祈りの対象についての言及をあえて避け、さまざまな場所で畏れ多い創造主(神様)に祈っている可能性が高いわけです。
そのような日本社会に、キリスト教会から偶像礼拝の罪が指摘され、イエス・キリストだけが神であるというはっきりしたメッセージが届くわけですから、キリスト教は排他的、独善的なものに映ってしまうかもしれません。
創造主(神様)は唯一であるが、どこにでもおられる方
聖書に示される創造主(神様)は唯一の神様ですが、一方でどこにでもおられる方であり、どのようなときにも神様に向かって祈るように記されています。
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。(コリント人への手紙第一8章6節)
私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。(使徒の働き17章28節)
あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)
唯一でありながらどこにでもおられる創造主(神様)を、私たちの知性で理解することは不可能です。たとえイエス・キリストを知ったとしても、創造主(神様)のほんのわずかな一面に触れただけなのでしょう。
しかし、不思議なことですが、日本人はぼんやりとではありますが、祈りの対象である大いなる方を、この聖書が示すような創造主(神様)だと捉えているように思います。おそらくこのような信仰心は、日本人が大昔から受け継いできたものなのでしょう。16世紀のザビエルに始まるキリスト教伝来よりはるかに古い、古代の日本に渡来した聖書信仰を持つユダヤ人の影響が色濃く残されているのでしょう。
日本人の心に寄り添い、祈りを取り次ぎたい
このような日本人ですが、現代社会においては多くの人が弱さを抱え、助けを求めるようになりました。彼らの多くは創造主(神様)に心を向けていても、重荷を委ねる救い主を知りません。
私たちは、彼らの弱さに寄り添い、善き隣人となり、彼らと共に祈りたいと思います。大切なことは、彼らの心の向きを変えるのではなく、彼らが、日頃から心を向けている創造主(神様)を共に見上げ、イエス・キリストを通し、彼らの祈りを取り次ぐことに努めたいと思います。
やがて、私たちの内におられるイエス・キリストが、ご自身の栄光を豊かに現してくださり、日本の各地に霊的覚醒が起こるようになると信じています。
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