古くは mixi、その後は Facebook、Twitter、Instagram、LINE そして TikTok など、SNSは大きな飛躍(そして進化)を今も続けている。そんな中、「こんなアイデアがあったか!」と思わずうならされた新たなSNSに遭遇した。それが「Clubhouse(クラブハウス)」である。このSNSがどんなものかを知りたければ、こちらの記事「【かんたん図解】Clubhouse(クラブハウス)とは? 始め方・使い方と注意点をわかりやすく解説」を参照してもらいたい。いちいち「使い方」や「操作の利点」を語る時間がもったいない(珍しく筆者、興奮しています)。また、どこの誰がどういう経緯でこれを生み出したかを知りたければ、ウィキペディアの記事をチェックしていただきたい。有料記事だが、こちらの記事「Clubhouse とは何か?サービスの歩みと創業者(前編)」では、Clubhouse 誕生の経緯を丁寧にまとめてくれている。
いずれにせよ、Clubhouse は、音声のみで不特定多数の相手と対話ができ、自分に興味ある話題を語っているユーザーの話を気軽に聞くことができるSNSである。特筆すべきこととしては、こちらの反応(例えば Facebook の「いいね!」など)はないし、誰がどんなルーム(特定の話題で集まった人々の部屋)にやって来たかなどの足跡(例えば LINE の既読機能)は残らない。言うなれば、完全にユーザーの自由が保証される中で、いろいろな人と共有の話題や興味あるトピックスで、ゆるく「触れ合う」ことができるSNSといったところだろう。しかもこのSNSは、誰かに招待してもらうか、知り合いの既存ユーザーから承認を得られないと入れないという、若干厄介なルールまで決められている。つまり第三者の「信用」あってこそ、入室を許されるというわけだ。
Clubhouse について知ったのはわずか1週間ほど前のこと。こちらの記事「今話題の音声SNS『Clubhouse』はどう盛り上がっているのかデータ分析してみた」を見ても分かるように、現在爆発的に拡大していることは確かである。そこで筆者も試しに Clubhouse のアプリをダウンロードして入ってみた。その際、私を承認してくれたのは、古くからの友人牧師であった。
それから1週間ほどがたつ。私はほぼ毎日、深夜までこのアプリに魅了され、いろいろなルームを訪問してしまった。なぜこれほどまでにハマってしまったのか。それは、こういうツールを私が長年にわたり、潜在的に求めてきたからである。その目的は? もちろん「伝道ツール」としてのそれである。さらに言うなら、これは個人伝道の「スキル強化アプリ」である。これはまるで現代のキリスト教版「大リーグボール養成ギプス」なのだ!(分かる人だけ笑ってください・・・)
今回は2回にわたり、Clubhouse を用いての最新伝道アイデアを提案したい。決して「紹介」などと大見えを切っては言えない。なぜならまだ実証されてはいないからである。しかし、ここに大きな可能性があることは確かだ。牧師、伝道師、そして特に神学生のあなた!ぜひこの記事を読んで、Clubhouse に登録してもらいたい!
1. マーケティング調査の場としての Clubhouse
ルームを眺めてみると、そこにはよくぞここまでバラエティーに富んだトピックスが集まったな、と思わされる。もちろん登録時に自分の興味あるトピックスを尋ねられるため、そこから抽出されて配信されたルームなのだろう。とはいえ、種々雑多である。これらルームのタイトルをザッピングするだけでも、いろいろなことを学ぶことができる。特に「あ、こんな表現をするのか」と思わされるものに出会うと、心が高鳴る。特に「堅く」「暗く」「つまらない」と思われている宗教ネタは、その反動が面白い。若手お坊さんたちのトークルームであったり、神主さんたちの休日の過ごし方であったり、「こんな話で人が来るの?」と思わされるルームに、時には100人を超える人が集まっていたりする。
キリスト教(そして教会)が現代社会に対して戦いを挑もうとしているのなら、こういった人が集まっている場所をチェックするのは必須だろう。しかも、そこで語られている話題にご丁寧にタイトルまで付けられており、そして自分がクリスチャンであったとしても気軽に、気付かれずに中に入ることができるのである。これ以上スリリングな「潜入捜査」はないだろう。こういうマーケティング調査を毎夜やっていると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
2. 趣味や好きなことを語り合える場としての Clubhouse(前編)
次に伝道という観点から見てみよう。私たちは福音主義的立場にあろうとなかろうと、「みことばを宣(の)べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(2テモテ4:2)という聖書の言葉を知っている。ということは、これを心のどこかに置いているクリスチャンであるなら、できることなら誰かを教会に、そして(信じて熱心なクリスチャンとなるか、キリスト教に興味を持つ程度か、の差はあれど)キリスト教の世界に招きたいという願いは持っているだろう。
しかし今までの教会のアプローチは、こういった人々の願いを極端にデフォルメし、「個人伝道はクリスチャンの義務です」とか「滅びゆく魂に何も感じないのですか!」という文言で、信徒たちを駆り立てていたという側面があった。だからクリスチャンに「どうして伝道しているのですか」と尋ねると、「伝道しなければならないから」とか「教会でそう教えられているから」という答えが返ってくることが往々にしてあった。これでは「やらされている感」がハンパない。
今だから告白するが、私はこの手の「無言の圧力」が最も嫌いである。だから教会に通いつつ、どうしてもできなかったのが「伝道」だったのである。(続く)
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