「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)
南の島に探検家が上陸すると、島の人々は大歓迎してくれました。そこで島民一堂に会し記念撮影を撮ることになりました。探検家がポラロイドカメラで撮って出来上がった写真を島の首長に渡します。彼らは写真というものを初めて見るので大興奮です。
首長は写真と島民一人一人を見比べながら言います。「これがオマエだ!」「オー!この美人がオレの妻だ!」一通り照合し終えると彼は困ってしまいました。「この真ん中に座って偉そうにしているやつは誰だ? こんなやつ見たことがないぞ」。彼はそれが自分だと気付かなかったのです。さすがに私たちは写真を見てどれが自分か分からないということはありませんが、写真は私たちにさまざまなことを思い出させてくれます。
私たちのアルバムには写真がたくさん残されています。しかし、それらの写真は実際に写されたものの中のほんの一部です。それらは多くの写真の中から選ばれて残ったものです。
あなたはどういう基準で写真を選択しますか。集合写真でも、他人は上手に写っていても自分の姿が気に入らない写真は排除されます。実際の自分よりも太っている写真もボツです。大きく口を開けて下品に物を食べている写真や、自分で見て不愉快にさせられる写真はちゅうちょなくゴミ箱行きです。
こうして、選り抜きの写真だけがアルバムに納められたり、写真立てに飾られるのです。もし、最悪の写真だけを選んだアルバムを後生大事に抱えている人を見たら、あなたはきっと不思議に思うはずです。しかし、ある人々は記憶のアルバムを実際にこのように編集しているのです。最高の思い出は忘れてしまって、最悪の思い出ばかり覚えているのです。
誰かに傷つけられた記憶をアルバムに残し、時々その写真を眺めては、その痛みや悲しみを繰り返し味わっているのです。多くの人の思い出のアルバムをめくってみると、そこには楽しかった写真よりも苦々しい思い出の写真が数多く貼ってあるのを見るでしょう。あなたの記憶のアルバムはどうでしょう。その思い出の写真はあなたの心を喜びにあふれたものにしますか、それとも深い悲しみに陥れるものですか。その写真は、あなたに勇気や希望を与えるものですか、それとも、奪うものですか。
かつて、イスラエル軍とペリシテ軍が戦ったときのことです。戦いは一進一退で硬直状態でした。そこで、お互いの国から一人ずつ代表の兵士を選んで戦い、その勝敗によって雌雄を決しようということになり、ペリシテ軍からは、身長2メートル60センチもある巨人ゴリアテが選ばれて出て来ました。それを見てイスラエルの兵士は恐れをなし、誰も出ようとしません。
ゴリアテはイスラエル人の臆病を嘲り笑います。その時兵士たちの安否を尋ねて戦場に来ていた少年ダビデはイスラエルの王サウルに、自分をゴリアテの対戦者に選んでくれるよう申し出ました。その時、少年ダビデがサウル王に言った言葉に注目してください。
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、しもべはそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるような時は、そのひげをつかみ、それを打って殺しています。しもべは獅子でも熊でも打ち殺しました。この割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」そしてダビデは言った。「獅子や、熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえと共にいてくださるように。」(1サムエル記17:34〜37)
少年ダビデは、どこからこのような勇気をもらったのでしょうか。それは彼の写真のアルバムの中からです。獅子や熊と戦ったときに神が共におられて、力を与えてくださったのをダビデはしっかりと覚えていたのです。その神が巨人ゴリアテとの戦いにおいても共にいて、勝利を与えてくださると確信できたのです。
あなたの話憶のアルバムは整理されていますか。その写真を見るたびに心が温かくなり、勇気や希望や信仰があふれてくるものだけを残してください。そのアルバムはあなたの一生の宝となるでしょう。
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