神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
あるお母さんが息子の運動会に出掛けました。息子がみんなと一緒に元気よく入場してきました。
「イチ・ニ・イチ・ニ・右・左・右・左」。足をそろえて行進しています。
しかし、このお母さんはあることに気が付いたのです。息子だけ他の児童と左右が逆なのです。
そこでこのお母さんは得意そうに大声で叫びました。
「皆さーん!見て下さい、ウチの息子以外は皆、間違っていますよー!」
私たちはこのお母さんのことを笑えません。人は誰でも自己中心的な考え方、見方から逃れることはできません。
「私は違う!」と言う方に聞きます。人から「これ、この前皆と一緒に撮った写真よ」と言って渡され、最初に捜すのは誰の顔ですか? そして自分の顔が少し気に入らないと心の中で「なんてひどい写真なの」と思い、思いの外美しく撮れていると「まー、ステキな写真をアリガトウ!」と喜ぶのです。
私たちの人格的・信仰的な成熟度を測る一つのバロメーターは、どれだけ自己中心から解放され、神中心の考え方や生き方ができているかだと思います。
「摂理(providence)」という聖書の真理を説明する神学用語があります。「摂理」とは「神が人の中に働いて、神の永遠の目的を成就されること」です。
パウロは<ローマ8:28>で「私たちは知っています」と言っています。この「知る」というのは、人生体験として「知っている」という意味です。パウロは何を知っていたのでしょうか。「神がすべてのことを働かせて益としてくださること」です。
「働かせる」という動詞は、継続を表す動詞です。つまり神の私たちへの働き掛けは、一度限りのものでもなく、時々気が向いたときだけでもなく、継続的にずーっと続いているのです。そしてその目的は「益としてくださること」です。
この「益となる」とは“雨降って地固まる”みたいな、何があっても自分にとって結局都合よく収まる、という意味ではないのです。つまり「益」とはこの世の経済的繁栄や成功ではなく、“私たちを成長させるために役立つ”ということで、私たちがキリストの姿に似るという目標に対して「益となる」という意味です。
従って、試練や苦難も神の摂理の中に一緒に組み込まれて、用いられていくのです。
ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセはその作品『車輪の下』の中で次のように述べています。
神が我々に絶望を送るのは、我々を殺す為ではなく、我々の中に新しい命を呼びさますためである。
ハンセン病の人々と深い交流のあった河野進牧師は次のような歌をつづっています。
病まなければ 捧げ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇蹟がある
病まなければ 聞き得ない御言がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔(みかお)がある
おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない
病気になることは誰にとっても嫌なこと、苦しいこと、悲しいことです。しかしその中で、その人が人格的、信仰的に成熟していくのなら、病気もまた益となったと言えるのです。
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