「ヤコブはベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた」(ホセア12:4)
昔、イタリアのシシリア島のヘロン王は自分の偉大さを誇示するために、金細工人に純金の王冠を作らせました。戴冠式の日、皆一斉に叫びます。「何と素晴らしい純金の王冠でしょう! 王様、大変よくお似合いです!」
ところが、一人の男が王に言います。「王様、その冠は純金ではなく、不純物が混ざっているように見えます」
この男の名前はアルキメデス。王は彼の言葉を聞いて激しく気分を害します。「アルキメデス、それが本当なら証明してみろ! さもないとお前の首が飛ぶぞ!」その日からアルキメデスは物につかれたように考え始めます。
ある日、気分転換に風呂に浸かります。その時、風呂のお湯がザッザーとあふれました。その瞬間、アルキメデスはひらめきます。アルキメデスの原理(個体の全部または一部を流体中に浸すと、それが排除した流体の重さに等しいだけの浮力を受ける)の発見です。
アルキメデスは興奮して外に飛び出し「発見した(ギリシャ語:ヒューリスコー)〜〜」と叫びながら王の所へ行きました。
「王様、やっと分かりました!」王は言います。「そうか! 分かったか! ところでお前は自分が素裸であることも分かっておるんだろうな」。アルキメデスは発見の喜びに興奮して、着物を着るのも忘れて「ヒューリスコー!」と叫んだのです。
実は聖書の中にも「ヒューリスコー!」と叫んだ人物が登場します。アンデレが兄弟シモン・ペテロに言ったことばです。「私たちはメシヤに出会った(発見した)」(ヨハネ1:41)。この「出会った」が「ヒューリスコー」です。出会いの喜びを表現した言葉です。
「人生は出会いで決まる」。これはユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーの言葉です。私たちは人生で実に多くの出会いを経験します。出会いの中にはうれしい出会いとともに、残念な出会いもあります。しかし、誰にとっても必ず「ヒューリスコー」と叫びたくなる出会いがあります。それがイエス・キリストとの出会いです。
大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後千葉県の東葛飾中学で英語の教師をしていましたが、大正15年28歳の時、肺結核を発病し30歳で召天しました。
しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。
私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に・・・一人の人に逢いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。・・・何とも云えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。・・・それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。・・・霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。・・・ここにおいて、私の自分自らの心の問題・・・広く人生に対する問題が氷の解けるように解けてゆくのを感じました。
八木重吉もまた、イエス・キリストとの出会いを「ヒューリスコー!」と叫んだ人です。八木重吉の「雨」という詩を紹介します。
「雨」
雨のおとがきこえる 雨がふっているのだ
あのおとのように そっと世のために はたらいていよう
雨があがるように しずかに死んでゆこう
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