新年に先駆ける12月のトランプ大統領のクリスマスグリーティングは印象的だった。2分半の限られた時間だが「人類を贖(あがな)うために人となられた神、聖書通りのイエス・キリストの降誕物語」が、大統領の口から大胆に明言された。オバマ時代の8年では、降誕物語どころか、宗教的だという理由で「メリー・クリスマス!」のあいさつさえも公の場から葬り去られ、米大統領が「メリー・クリスマス!」と降誕節のあいさつを送る当たり前のことができなくなる異常事態が続いていたのだ。
男女間の結婚、家族、父権、プロライフ、昨今これらが明確にピンポイントで攻撃にさらされているのだが、つまりこれは「聖書の権威」に対する挑戦なのだ。これら見える事柄の背後に横たわる見えない霊的な本質とは、“光と闇”、“真理とうそ”、“神と悪魔”の熾烈極まる霊的な戦いだ。政治的問題は表層を覆う一面にすぎない。
目下、1月6日の選挙人投票の開票をするペンス副大統領の役割に注目が集まっている。どうやら連邦最高裁以下、司法は選挙結果を覆すような判断は避けたいかに見える。司法はその判断を避けた代わりに、決着の場を、民意の裏付けのある立法府と行政府の人々に委ねた形になった。
1月6日に開票をする副大統領は、開票両院議会で「バイスプレジデント(副大統領)」とは呼ばれず、単に「プレジデント」と呼ばれる。この日彼には、憲法上、不正選挙が疑われる州の選挙人票を無効にする権限が付与されているのだ。
事によっては、歴史的決断を下さなければならない立場にある副大統領が、神を畏れる敬虔なクリスチャンであったことに、何かしらの摂理があるのではないかと感じずにはおれない。彼がそのような強硬な一手を打つには、明確な証拠と強力な世論の後押しは不可欠だろう。どうか1月6日のペンス副大統領の働きを覚えて祈っていただきたい。
我々キリスト者は、究極的には民主主義も政治的自由も信じてはいない。それは暫定的であり消極的選択の結果だ。しかし我々が、民主主義や自由を求めて戦うのは、我々キリスト者のため以上に、非キリスト者たちのためにそれが有効だからだ。あまねく宣布されなければならない福音宣教的視点(マタ24:14、マコ16:15)に立つならそうなのだ。
当然だが、トランプ大統領は救い主ではない。しかし彼の就任した4年間は、破滅的な裁きに向かう世界的傾向を戻し「時間稼ぎ」をしたと言えるのではないか。もしそうであるなら、さらに4年の猶予が与えられるのは、いまだ救いの方舟の外にいる愛する人たちのためには重要だ。
主イエスは「昼の間に働きなさい。誰も働くことのできない夜が来る」(ヨハ9:4)と言われた。終末論を無視した世界宣教はあり得ないし、正しい終末論は我々をして、隣人の救霊に駆り立てないはずがない。2021年、この新しい年も、絶えず目覚めている忠実な僕として“昼の間”にこの業に励み、共に祈り、再臨の主に備えよう。