歴史を学ぶときに必ず出てくるのが、B.C.やA.D.という表記です。前者は「紀元前」と訳され、後者は「西暦」と訳されます。しかし正確には、B.C.は英語の略語で「キリスト以前」を意味し、A.D.はラテン語の略語で「主の年に」を意味します。つまり、キリストの誕生の前と後で、歴史が変わったことを示しています。もっとも、6世紀に神学者ディオニュシウス・エクシグウスが主イエス・キリストの降誕の年代を算出した計算が間違っていたために、A.D.1年はキリストの降誕の年よりも、少なくとも4年はずれています。
キリストがいつお生まれになったのかという問題は、興味が尽きない話題です。ルカによる福音書も、できる限りその年代のヒントになる事柄を記しています。しかし、それでもいまだに正確な年代を特定することは困難です。
こんな話題からクリスマスのメッセージを語るのは、イエス・キリストがお生まれになったという歴史に疑いを持っているからではありません。まして、それを過小評価しようとするのでもありません。むしろ逆で、キリストがお生まれになった出来事のインパクトの大きさを伝えたかったからです。年代の数え方には古今東西いろいろなものがありますが、西暦には、キリストの誕生をもって時代が変わったのだ、という意識があります。そればかりか、これを超える時代の変化は、あの時以来、一度もないということです。キリストを信じる者たちにとっては、キリストの誕生こそ、後にも先にもない時代の大転換です。
もっとも、生まれたばかりのイエス・キリストに会ったのは、ごく限られた人たちでした。この時代のパレスチナに生きていた人たちにとって、その誕生は決して華々しいものではありませんでした。王宮で生まれたのでもなく、その誕生を誰もが期待し、喜んだわけでもありませんでした。時代の転換点でありながら、人知れず世界の片隅で起こった出来事にクリスマスの不思議があります。
マタイによる福音書2章に描かれる降誕物語には、キリストを取り巻くさまざまな人物が登場します。そこに登場する人々のほとんどは、キリスト降誕の年に生きていながら、なお、時代の転換を拒絶して、キリスト以前の時代を生きている人たちでした。
マタイによる福音書によれば、イエス・キリストがお生まれになったのは、ヘロデ大王がまだ存命の時代でした。ヘロデは占星術の学者たちから、新しい王の誕生の知らせを聞かされて、「不安を抱いた」とあります。この不安はヘロデ一人のものではなく、エルサレムの人々も同様であったといわれています。
確かに、ユダヤを支配しながら、しかし、ユダヤ人の正当な王の家系ではないヘロデにとって、ユダヤ人の王として生まれたイエス・キリストの存在は脅威でした。たとえそれが生まれたばかりの赤子であったとしても、必ず自らの将来を脅かす存在だと感じたからです。後にヘロデは、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させたとあります。それはヘロデの残忍さを示しているというよりも、ヘロデの不安の大きさを物語っています。結局のところ、ヘロデは自分の心の不安を権力によって払しょくしようとしたということです。ヘロデがそれまでに成し遂げた業績は、決して小さなものではありませんでした。数々の要塞をはじめとした建造物は、当時の世界を見ても、偉大なものでした。特に再建したエルサレムの神殿が目を見張るものであったことは、キリストの弟子たちの言葉にも表れています(マルコ13:1)。しかし、そんな大きな業績を成し遂げたにもかかわらず、新しい王の誕生のうわさに心穏やかでいることはできなかったのです。
それはエルサレムの住民たちもそうでした。支配者の交代は、しばしば社会不安を引き起こすことがあるからです。ヘロデのような王の支配に不満を抱きながらも、しかし、実際の変革には不安を感じていたのです。
ヘロデの不安とエルサレムの人々の不安は同じ不安ではありませんが、しかし、自分の生き方や生活が変わることへの不安という点では共通しています。そしてそれは、どんな人にも共通していることです。人は大きな変化を望んでいるようで、しかし、安定を望んでいます。今に不満を感じていても、変わることには恐れを抱きます。まして、今に不満がなければ変わろうともしません。
キリストが今の時代に生まれたとしても、結局のところ、変化を恐れる不安がキリストを心の中から締め出してしまうのです。
次に登場する祭司長や律法学者たちはどうでしょう。彼らこそ、メシアの到来に期待を寄せていた人々のはずです。ヘロデから新しい王の誕生について尋ねられると、その知識をフル回転させて、たちどころに預言者の言葉をひもとき、メシアがどこで生まれるかを言い当てます。しかし、それ以上の関心を示しません。王が生まれるとすれば、ここだと知っていながら、それ以上は深入りしようとしない無関心な態度です。ことの真偽すら自分の目で確かめようともしない無関心ぶりです。彼らは何のために神殿で神に仕え、律法の学びを積み重ねてきたのでしょうか。預言者の言葉は、いったい彼らにとって何の意味があったのでしょう。
しかし、この祭司長や律法学者たちの態度もまた、現代に通じるものがあります。知識と現実とが結び付かない生き方です。原理的に正しいことを知っていても、それはそれ、これはこれにとどまる生き方です。そして、それらの根底には無関心が色濃くよどんでいます。
そうした人々と対照的に描かれているのが、東方からやってきた占星術の学者たちです。「占星術の学者」と訳されている言葉は、別の箇所では「魔術師」とも翻訳される言葉です(使徒13:8)。魔術や占いは神の目に忌み嫌われる行為でした(歴代誌下33:6、イザヤ2:6)。ユダヤ人の目から見れば軽蔑されるような人たちが、王の誕生を祝うためにはるばる駆け付けたのは、ただの好奇心ではなかったでしょう。しるしとなる星を発見してからエルサレムに至るまで、どれほどの距離を、どれほどの日数をかけてやってきたのでしょうか。ちょっと隣町に出掛けるという感覚ではありません。好奇心を満たすというには、あまりにもリスクが大き過ぎます。ある意味、それは彼らの人生を賭けた信念であったかもしれません。
異教の神々を信じる異教徒たちによって、キリストの誕生が最初に祝われたというのは、まさにクリスマスの不思議です。しかし、ここにこそ、これから展開される救いの御業が暗示されています。
天地万物をお造りになった神、その父なる神のもとから遣わされた救い主イエス・キリストは、イスラエル人の救いのためだけに遣わされたのではありません。あらゆる国民が、神の救いにあずかることができる基(もとい)を、神は用意してくださいました。
その救いの恵みを信仰によって受け取る人だけが、キリストによってもたらされた、新しい救いの時代を歩むことができるのです。この記事を読んでくださった方々が、不安や無関心から解放されて、キリストにある新しい時代を生きてほしいと願います。そのように神は私たちを招いておられます。
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