チャーチ・オブ・ザ・シティー(米テネシー州フランクリン)の主任牧師でベストセラー作家でもあるジョナサン・ピッツ氏は、身近な人を亡くした人はこのクリスマスシーズン、悲しみが「波のようにやって来る」ことがあるかもしれないが、そうした感情を否定する必要はないと話す。
「自分が感じていることや体験していることをありのまま受け入れてください。今は悲しんでいないとしても、その時が来ることを知っておいてください。そして、その心備えをしておくのです。でも、もし今すでに深い悲しみの中にいて、その悲しみが決して消え去ることがないかのように感じているのなら、悲しみは必ず消え去っていくことを知っておいてください。(悲しみの)波はすぐに消え去ります。波は岸にぶつかって消え、あなたは少しの間、解放されるでしょう」
ピッツ氏の妻で、著名なトニー・エバンス牧師の姪であるウィンターさんは2018年、就寝中に突然、38歳でこの世を去った。15年間連れ添ってきた2人には4人の娘がおり、夫婦で神のために働きたいという志を共有していた。ウィンターさんを亡くしたピッツ家は、ウィンターさんのいない暮らしを生きる術を習得しなければならなかった。
ピッツ氏は今年8月、米キリスト教育児ポッドキャストの番組(英語)で自身の体験を語った。また来年2月には、著書『私のウィンター・シーズン:神の誠実さを悲しみの影の中に見る』(原題:My Wynter Season:Seeing God's Faithfulness in the Shadow of Grief)も出版する予定だ。
「私にとって執筆活動は常に癒やしにつながりました。ウィンターを亡くしたときもそうでした。私はちょうど執筆を始めたところでしたが、原稿を書いていると、ただ何かを考えているときよりも深い癒やしを受けている感じでした」
「私は普段、誰か他の人に対して本を書きますので、隠し事をすることはありません。いつも無防備で自分を隠すことはしません」
ピッツ氏にとって、執筆活動における無防備は「ブランド」となり、愛する人の死とその後の歩みをつづった著書は「癒やし」となった。
この2年間は悲しみに対処する術を学ぶプロセスだったとピッツ氏は語る。
「そのプロセスは私にとって有益な視点になりました。また悲しみが本当に深いとき、それを忍耐するのに役立ちました。悲しみはいつも一定のレベルで戻ってきますので、悲しみが完全になくなったように感じるときは要注意です」
「あなたの心の状態や感じていることをそのまま受け入れてください。しかし、あなたが主に近づけば近づくほど、神の言葉がより身近に理解できるようになり、生と死に関する理解も深まります。そして、生と死のどちらにおいても神が希望をもたらすことができると知れば知るほど、あなたの状態は改善されていきます」
その一方で、悲しみを理解してもそれが完全に消え去ることはないとピッツ氏は言う。しかし、新たに学んだ物事の見方は有益だという。
ウィンターさんはキリスト教書の著名な執筆家であり、講演家であり、雑誌「フォー・ガールズ・ライク・ユー」(英語)の創刊者でもあった。そのウィンターさんを亡くしてから迎えたクリスマスは、それまでとは違う変化があったという。
「クリスマスシーズンは常に私の関心事です。最大のポイントは、幾分か娘たちの悲しみがぶり返すことが予想されることです。クリスマスが近づくと、娘たちは母親がいないことを必ず思い出します。ですから、私としては気を緩めることができません」
それはピッツ氏にとって簡単なことではなかったが、対処法を見いだしたという。
「大人はどちらかというと直線的に悲しみ、子どもは周期的に悲しむと言われています。ですから私にとってこの2年間は、クリスマスシーズンがさほどつらくなく、楽しむことができています」
「私にとってうれしい瞬間は、ウィンターに敬意を表するときです。私たち家族は、(クリスマスシーズンが始まる)感謝祭にはキャンドルに火をともすのですが、それが生前のウィンターを思い出す機会になるのです。クリスマスには彼女の思い出を語り合います。そうすることで、象徴的にウィンターをその場に招いているのです。私たちも彼女もキリストと一体ですから、キリストにあって彼女はいつも私たちと一緒にいるのだと気付かされるのです」
ピッツ氏は、自分自身も娘たちもやがては今の家族と死別し、そして再び天国で一緒になる時が必ず来ると語る。
ピッツ氏は、セラピーやカウンセリングが非常に役立ったとし、愛する人を失った他の人たちにも、悲しみに対処するプロセスを見いだしてほしいと話す。
「神は私たちをさまざまな方法でつくられました。私は、神が私をどのようにつくられたのかを知っており、その強みも弱みも知っています。私にとっての強みは、自分の人生に対して常に前向きなビジョンを持っていることでした。ですから、ウィンターを失った当初から、私は神がなそうとしておられるビジョンを失うことはありませんでした。ですから私は、その点で常に希望に満ちていました」
「しかし、私にとって大変だったのは、感情や喜怒哀楽を表現したり、自分の状態を維持したりすることでした。ただ私は癒やされたいと思っていましたので、前に進まなければなりませんでした」
「無理にでも前に進まなければなりませんでした。ですから、悲しみの中でじっと座っているのが大変でした。そのため、最初に悲しみがやって来たときに私が取った方法は、(悲しみを)否定することだったと言っても過言ではありません。それには利点がありましたので励まされました。私にとっての問題は、長い時間をかけて本当に悲しんだことが過去に一度もなかったことです」
ピッツ氏の場合、悲しみ中で「じっと座る」ことができるまでに半年の月日が必要だった。そして、ウィンターさんが亡くなった翌年になって「十分に悲しむ」ことができ、その体験が「本当に思い出される」と話す。
「ある人たちは過去にこだわり過ぎるという逆の問題を抱えているため、未来に対するビジョンを持つことができません。ですから、一番良いのはできるだけ早く悲しんでしまうことです。というのは、皆さんが今その段階にいるからです。でも、皆さんはある時点で、未来に向かって進まなければなりません」
最後にピッツ氏は、愛する人の死を悼む際、自身自身を良く理解しておくよう勧めている。
「自分自身を理解し、神が自分をどのようにつくられたかを知り、自分が陥りやすい落とし穴を見つけた上で、神が自分に与えられた長所を知っておくことは有益だと思います。ですから、自分自身を知っておいてください」
「カウンセリングも非常に重要だと思います。カウンセリングのおかげで、私は自分が悲しみを体験することにあまりにも性急すぎたこと、スローダウンする必要があったことを理解できました。ですから私は、カウンセリングというのは悲しみの体験の別の一面だと思っています」
ピッツ氏によると、ウィンターさんの死後、エバンス氏だけでなく、その子どもであるプリシラ・シャイラーさんやアンソニー・エバンスさんなど、妻方の親族から力強い助けがあったという。
「彼らの支援はとても貴重でした。信じられないほどでした」とピッツ氏は言う。
「本当に良かったのは、ウィンターが亡くなるちょうど2週間前にナッシュビルに引っ越せたことです。(妻の)家族とは離れてしまいましたが、働きは共にしていました。そんな中、神は素晴らしいことをしてくださいました。彼らは御国の労働者であるばかりでなく、私にとって再び家族となったのです」
「彼らは考え得るあらゆる方法で私を支えてくれました。霊的にも感情的にもです。物理的にも助けてくれました。時には私を助けるために、ナッシュビルに飛んで来てくれました。アンソニー、プリシラ、クリスタル、ジョナサン、彼らがみな私の家に来てくれて、私の家族のために尽くしてくれました。実際アンソニーは、ウィンターが亡くなった後、私と2週間一緒にいてくれました。本当にありがたいことでした」
オーククリフ・バイブル・フェローシップ(米テキサス州ダラス)の主任牧師を務めるエバンス氏も昨年12月末、当時49歳だった妻をがんで亡くすという悲しみを経験した。
「妻を亡くしたエバンス牧師と悲しみを共有できたことは素晴らしいことでしたし、今度は私の悲しみを彼と共有できました。神のおかげでエバンス牧師の奥様の死を共に悼むことができ、私は光栄に思っています。神はご自身と共に歩む光栄を私に与えてくださいました。私はそのことを本当に感謝しています」
「もしあなたが神とつながっているなら、神と献身的な生涯を過ごし、神を追い求めてほしいと思います。あなたと神だけの時間の中で、神があなたに語り掛けてくださるようにお願いしてください。『主よ、私は聞いています。お語りください。そうすれば、私もあなたに語ります』。友人に話し掛けるように神に語り掛け、父親と話すように神に語り掛けてください。あるいは、その両方でも構いません。神は友でもあり、父でもあるからです。だから、あなたが今いるところ(今の状態)から始めてください。でもそうした後は、論理的かつ計画的に一歩を踏み出してください」
どんなに絶望的な状況でも、主は希望を与えてくださるので、誰もが主を求めるべきだとピッツ氏は言う。
「主は絶望的な状況の中で私に希望を与えてくださいました。主は今この瞬間も、私に対して、また新型コロナウイルスに対して、同じことをしておられます」
「確かに疲労感はあります。『The Weary World Rejoices』という曲の歌詞が今ほど当てはまる時はないでしょう。クリスチャンである私たちは、私たちの王が来られたことを賛美し、私たちのインマヌエル、共におられる神が来られたと歌いましょう。そうすれば、疲れた世界も喜ぶことができます。主が来られたということは、主と共に希望も到来したからです」
「イエス様に希望を見いだしてください。イエス様だけが、いつまでも続く希望だからです。疲れた世界がここにあるとしても、私が喜ぶことは可能です。ですから、私は喜びます」