空にゆっくりと朝日が滲み、虹色の光が地平線に広がります。羊雲が光を映してピンク色に輝きながら、ゆっくりと空を流れてゆきます。あまりに美しいこの空をいったいどのような方がおつくりになったのでしょうか? いったいどれほどの人が、この奇跡的な一瞬に目を留めていることでしょうか。そう、神様がおられ、神様がおつくりになったからこそ、この世界や一つ一つのいのちの瞬間は、千輪の花でも表せないほどの美しさをもって、今も奏でられているのです。
この世界の始まりのとき、神様の愛されたみ使いの一人が、己の美しさに高ぶりを覚えて、闇に堕ちたといわれます。「私こそが神だ」と名乗り始めたそのみ使いは、神様とは相対する悪魔となったといわれています。そして神様が麗しく創造されたこの世界に、深い闇の霊を忍ばせていったというのです。
神様は愛、そして光そのもののようなお方です。光は、愛や善、優しさや赦(ゆる)しとして、この朝焼けのように、世界を彩って輝きます。そしてこの世界を治めることを許された悪魔が、光の中に闇を忍ばせ、その闇は、人の心を甘くとらえ、心の中をも侵そうとしています。
しかし、神様の息吹でできたようなみ使いたちが、この世界には風のようにすんでおり、神様の愛される人間たちのもとに遣わされ、神様を求める人々に遣わされているというのです。…まるでファンタジーのような世界ですね。
そんな、闇と光のコントラストの奏でられる世界のなかで、私たちの人生は風のように揺れ動き、万華鏡のように展開します。この物語は、光と闇のはざまにもがく、「からし種」たちのものがたり。「からし種」それは吐息で吹き飛ぶほどに小さく軽い種ですが、育てばそれは大きく育つというのです。「からし種」それは光と闇のこの世界で、神様を求めるささやかな、しかし強い心のことです…。
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「神様どうか、お助けください。私の罪のせいならば、私のことを罰してください」。ミチコは自室で手を組んで、覚えたてのお祈りをしておりました。
2階の子ども部屋では、もう子どもとは言えない年齢のミチコの娘が、ろうそくの前で祈りを唱えておりました。娘は自分で作り出した神様に、毎夜何時間も祈るのです。それはたいてい、平和の祈願でありました。娘は、自分は他の星から遣わされた特別な存在だと信じており、揺らめくろうそくの炎に向けて、祈りをささげているのです。炎は揺らめき、娘の心臓を高鳴らせます。窓から見える赤い星は、どくんどくんと脈動するように明滅し、まるで娘を呼ぶようです。
ミチコは3カ月前、わらにもすがる思いで教会の門をたたきました。そして牧師先生にすべての癒やし主でおられる神様のお話を聞き、心の慰めを得ておりました。
娘は10年ほど前から、奇行が増えておりました。UFOについての本を読み漁って「自分は異星人かもしれない」と書き置きを残して失踪したこともありました。おとなしいはずの子であったのに、暴力沙汰を起こして入院させられたこともありました。
ミチコの心労はその間途絶えたことがありませんでした。夫はそんな娘の状態を理解しようとすることもなく、娘がおかしなことをしたり、言うたびにあきれ返るばかりでした。「私が娘を守っていかなければ」。ミチコは張り詰めた思いで、娘を理解し、寄り添おうとしてきました。
「もうここにはいられないの、私は自分の星に帰らなければ」。そうつぶやいて泣いた娘の細い肩を抱きしめて、「もうここにはいたくないんだね」そう言って一緒に泣いた日もありました。まるでミチコはかぐや姫の母親になったような気がしました。思えば小さい頃から娘は逃避癖を持っていました。幼稚園に行かずに、橋の下で遊んでいた娘は、「ダンゴムシさんたちと遊んでいたの」そう言って笑いました。その時のままこの世界を拒絶するように年を重ねたのかもしれません。100円ショップでいろいろな色のビーズを買って、それを床に散らばして、「銀河を作った」と自慢げに見せる、間もなく40になろうとしている娘を見つめて、(一見普通に育ったように見えていたけれど、中身はあの頃と何も変わっていなかったのだ)とミチコは思いを馳せました。
今日も娘は元気に探検に出かけます。道端の枝や松ぼっくりや石を拾って帰ってくるのです。それらは娘の宝物です。体が芯まで冷え切るまで探検し、野菊を摘んで楽しそう。ミチコは回復を願うよりも、娘を守り抜く力を神様に求めるようになりました。
それでも、「ご近所様に恥ずかしい」「施設に入れるしかないんじゃないか」「いい年をして嫁にも行けずにどうするんだ」と、悪魔のささやきのように夫は愚痴をこぼします。その言葉はミチコの心もえぐりました。(確かにそうだ。これからどうやっていけばいいのだろう。)心は締め付けられました。
そんなある日、ふいに転機が訪れました。娘が毎週水曜日の夜に開かれている‘聖書の勉強会’についてくるというのです。ミチコはまだまだ神様や、十字架にかかったイエス様というものがよく分からず、娘にもうまく説明することもできないでいたのですが、教会に行くことは良いことのように思えました。
礼拝堂の脇にある簡素な集会室は、暖房を入れたばかりでまだ冷え切っておりました。ミチコも娘も、コートの襟に首をすくめてパイプ椅子に座りました。しばらくすると温かいお茶を淹れて牧師先生が現れました。
「今日はこの寒さですから、3人だけの集会になりそうですね。それもまたいいでしょう」そう言って笑いました。そして牧師先生は聖書を開き、「まずはこの、聖書というものについてお話ししましょう」と聖書を読み始めました。「『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備が出来て、完全に整えられたものになるのです』(2テモテ3:16、17)…私たちの祖先はアダムとエバと名付けられて、神様と麗しい関係を持って楽園に生きていたといわれます。しかし私たちの祖先は神との関係を断って、楽園を追われて生き始めました。クリスチャンになるということは、聖書に書かれた神様の言葉を道灯りとして、神様とのきずなの回復をする道であるのです」とお話をされました。
娘は真剣に聞いていました。その日の牧師先生は、いつになく真剣でした。目の前にいる行く当てもなくさまよう羊のような娘をどうか、神様のもとにお返ししようと燃え立つように熱心でした。そして、牧師先生はまっすぐとイエス・キリストの福音についても語ったのです。
「なぜなら、聖書にある通り、神はその一人子を与えるほどに世を愛されていたのです」。娘は、2千年も前に神の御子が実際にこの世界に生まれたという話に、身を乗り出して聞き入りました。娘のまぶたの裏に昔見た映画のシーンが流れました。それはイエス・キリストの生涯を描いた映画で、汚い洞穴のような馬小屋で、泊めてくれる宿もない貧しい夫婦のもとに約束の御子が生まれたシーンでした。貧しい羊飼いたちのもとに、天を埋め尽くすほどの天使の軍勢が現れて、約束のメシアが生まれたことを告げ羊飼いたちは喜び踊ります。3人の博士たちは星を追って、約束の王の誕生を拝し、ささげものをしています。
娘の目からはうろこが落ちるようでありました…「あれらはすべて、神話や寓話の物語ではなくて、この世界に実際に起こったことを描いていたとしたならば…本当にこここそ神様の世界じゃないのかしら」そうひらめいたのです。
ミチコははらはらとして娘と牧師先生のやりとりを見つめていました。(いきなりこんな難しい話をして分かるわけがない。)そう思っていたのです。しかし娘はますます熱心に、牧師先生にいろいろな質問をぶつけました。その都度、先生は聖書を開いて一生懸命答えていました。そして先生は娘に分厚い聖書を渡し、「分からないことがあったらいつでも聞いてくださいね」そう言って2人を帰しました。
聖霊が働いておりました。この夜を支配するように、聖霊が集会室に満ちあふれ、牧師に力を与え、娘の目を開かせました。ダニエルはその様子をじっと見つめ、ミチコの家に銀の粉のベールをかけて、その家を神様のものと、聖別しました。もう悪霊たちも入ってくることはできないでしょう。神様が限りなく強い力で、娘をお守りになろうとされたのですから。
娘はその晩から、熱心に聖書を読みました。始まりの文面からなぜか心惹かれ、「ヨハネの福音書」に目を落としました。まるでこの世のものとは思えない、麗しい言葉が心に直接語られるようでした。「この命は人の光であった。光はやみのなかに輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:4~)。娘の心臓はバクバクと音を立てました。まるで神様にじかに触れているように、高ぶって鼓動するのです。ダニエルは娘の隣に座り、娘の‘理解’を助けました。兄がその妹に読み聞かせてやるように、娘の血に直接語らっていたのです。
遠くから徐々に、十字架が迫ります。両手のひらにくぎを打たれ、熱い血を流しておられるお方がいます。そのお方の両手から流れる、まるで煮えたぎるように熱いその血は、その方の「愛」の熱さそのものでした。娘の、バラバラでどうしてもまとまらなかったこの世界のジグゾーパズルが、みるみるはまっていくようでした。真ん中に、十字架…。どうしても一つに統合できなかった娘の世界は、あまりに麗しく悲しい世界図を描いて完成したのです。娘はその方の尊い名を叫びながら泣きました…。
それから娘は、よく教会を訪ねるようになりました。幼稚園も学校も大嫌いだったのに、初めて本当に学ぶことを知ったように、筆記用具を準備して喜び勇んで向かったのです。教会は本当の‘学び舎’でした。本当に学びたかったことを初めて学べる場所でした。私たちはどこから来て、どこへ向かっているのか。この世界のどんな科学の授業でも納得できなかった‘神秘’の理由。命の不思議や人生の意味…。
思えば人は、自分が何者であって、どうしてここに立っているのかさえ分からずに、毎日の用事をせわしなくこなして年老います。なぜそんなことに耐えられるのでしょうか? その足元は限りなく心もとないものでしょう。少なくとも娘は、ようやく自分の足元が深く地に根差し始めた気がしました。もう立っているのも怖くない。そう思い始めたのです。
ミチコもぐんぐん先へ行く娘に追いつくために一生懸命、教会に通いました。娘がうそのように変えられてゆくのも目の当たりにしました。今まで娘の言葉は統一感やまとまりがなかったものでしたが、今やその言葉に「聖書」を軸としたまとまりと統一感が生まれ、人と会話することも、おかしいことなくできるようになっていたのです。
1年後、ミチコのバプテスマ式の3カ月後のことでした。娘も立派に白い衣を身にまとい、バプテスマ式を迎えました。教壇に立って、救いの証しを話す時が来ました。小さな声で話し始めた娘は、足まで震えていることが分かるようでした。ミチコは「がんばれ」と祈りました。教会の人たちにも温かく見守られ、その声は次第にはっきりと力強く変わりました。
娘は一生懸命話しました。「小さな頃、私は花嫁になる夢を持っていました。野花を摘んで冠を作り、いつか花嫁衣装を着ることを疑いもなく信じていました。しかし、大人になると花嫁の夢は消えてゆき、世界も色彩を失いました。しかし、この方に出会って、私は花嫁になる夢を、かなえていただけることを知りました。…その方は、ご自身はいばらの冠に額に血を滲ませながら、私たちには野花の冠を編んで載せてくださるお優しいお方です。その方のもとに私は花嫁に行くのです…」
そう言い終えると涙を流しながら、教壇から降り、牧師先生に導かれ、洗礼漕の中に身を沈めました。涙と水でずぶ濡れの娘は、ミチコが見たこともないほどに美しかったのです。
ミチコは水から上がった娘を抱き寄せました。「かなうよ、かなうよ」。そう言って肩を抱いて泣いたのです。娘は教会の天井を見上げました。そこには千も万ものみ使いたちが飛び交いながら、喜び歌っているのが見えるような気がしました。
「ホサナ、主をほめたたえよ」「ホサナ、主をほめたたえよ」。この世のものとは言えない美しい声楽が天井を突き抜けて大空の向こうまで響いているのが聞こえるようでありました。天からゆっくり、野花の冠が降ってきます。それは娘の額を飾り、娘はまるで純白の花嫁のようでした。
ダニエルは娘を祝福して、娘の唇を導くようにささやきました。娘の唇から賛美がほとばしります。「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山とあなたの住まわれるところにわたしをいたらせてください」(詩43:3)と。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。