「こんなはずじゃなかった」。マサトはじりじりと唇を噛み、毛布を握りしめて眉間にしわを寄せました。
こんなふうにベッドから立ち上がる気力さえも失って、はや3年がたっていました。医師はうつ病、と告げ、1日に10錠を超える薬を出しました。働くこともできなくなり、貯金も底をつき始め、生活保護を受けることをケースワーカーは勧めるようになりました。「こんなはずじゃなかった」。マサトはこぶしを握り締め、悔しさに涙を流しました。目を上げると、ギロチンの処刑台が見えるようです。刃は鈍く光りながら、マサトの首の上で揺れています。早く落ちろ、とマサトは願いました。こんな命、今にも終わらせてしまえ、と。
3年前までマサトの人生は浮かれ切ったものでした。誰もがうらやむ企業に勤めて、女性たちもよりどりみどり。毎晩のように違う女性を誘っては、夜景のきれいなインド料理やフランス料理に誘って恋を楽しんだものでした。イタリア車のハンドルを華麗に切って、大きな音でオペラを流しながら首都高のカーブを曲がり、大都会の夜景を一望すると、まるで世界をも手にしたような気分になったものです。携帯にはひっきりなしにパーティーや旅行の誘いが届きました。体が一つでは足りないな、と弱音を吐くことも、今思えば楽しいものでした。
そんなマサトのからだがある日を境に、背中に何かを背負っているのではないかと思うほどに重たくなり、朝起きることも、顔を洗うこともしんどくなりました。頭はいつも雲に覆われているかのように晴れ間を見せず、どんな景色も灰色に染まってゆくようでした。
「すぐによくなる」そう言い聞かせて、普段通りの暮らしをしようと思っても、体はついてきませんでした。それでも「すぐによくなる、元に戻れる」そう信じて仕事は休暇をもらいました。しかし、マサトの思うようにはいきませんでした。症状は悪化の一途をたどり、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと仕事も辞めざるを得ませんでした。次第に誘いのメールも途絶え始め、(あいつはダメになったんだ)そんなうわさがざわざわとマサトの頭をよぎりました。
無理をしてスーツに身を包み、行きつけのホテルに泊まってみたこともありました。ホテルの最上階にあるバーで、胡椒のきいたチーズを口に運びながらカクテルを愉(たの)しもうとしたのです。しかし耐えがたいほどのめまいに襲われ、大好きだった夜景はゆがみ、波打ちながらマサトを襲いました。「こんな恐ろしい世界では、もう生きてはいられない」。マサトはほうほうの体でベッドにたどり着き、倒れるように眠ったのです。それからは、家から出ることも恐ろしく感じるようになりました。マサトはカーテンを閉め切って、日に日にカビ臭くなる部屋で、枯れてゆく観葉植物たちと一緒になってしおれていってしまったのです。
あれほど軽蔑していた福祉のサポートを受け、訪問看護師さんたちが作ってくれる食事をなんとか口に運びました。「こんな高い家賃のところではすぐに貯金も尽きてしまうから、安いアパートに引っ越しましょうよ」。そんな善意の言葉も憎らしく思いました。「俺を誰だと思っているんだ」そう口にはせずとも思っていたのです。
何でこんなことに・・・マサトはそう思っていましたが、その影はマサトがとても元気なころから忍び寄っていたのです。マサトはどこかしら不満であり、不安でした。「まだまだ足りない」。自分の中に秘められた、際限なき可能性を実現するには、お金もチャンスも女性すらも、どれほどあっても足りないように思えました。心から満足したことだって、あったでしょうか。心の奥深いところにはふつふつと不満が煮えており、たとえそれらのすべてを実現できたとしても、この不満は消えるのであろうかと不安でした。マサトが求めているものは明確でした。「何にもとらわれず、すべてが自分の自由になること」・・・そしてその思いの囚(とら)われの中で、マサトはとても不自由であったことに気付いてはおりませんでした。「得ること」以外に自由を手にする方法を知らなかったのです。
ついに貯金の底が見えてきたころ、マサトはケースワーカーさんと市役所を訪れました。もう自分の力では、どうしようもなくなってしまったのです。生活保護の説明を受けている間、マサトは悔し涙をこらえました。ついにここまで落ちぶれたのか、そう思ったのです。昔の自分を知っている人に見られるのではないか、とびくびくしました。
そのころ、医師はマサトに病院で行われている作業療法を勧めました。家にずっと引きこもっているのは良くないと思ったのです。作業療法のメニューはさまざまでした。料理やアロマクラフト、植物のアレンジメント、ヨガ・・・正直心がひかれるものは一つとしてありませんでしたが、運動不足で太ったことを気にしていたため、ヨガのクラスに参加してみることを医師と約束しておりました。
市役所の帰り道、ケースワーカーさんに病院の作業療法を見学に連れて行ってもらいました。明かりを落とした部屋の一室の窓をのぞき込むと、オルゴールの音楽に合わせて10人ほどの人たちがヨガのポーズをとっていました。
「あれはみんな、俺と同じような病気の人たちなのですか?」マサトはケースワーカーさんに聞きました。「そうですよ。マサトさんよりも重い人も軽い人もいるでしょう」。マサトはなんだか安心しました。「なんだ、人じゃないか」そう思ったのです。それまでマサトは、自分のような人間は、人間失格の人生の落後者だと思ってきました。しかしヨガをしている人たちは、それぞれに個性もあり、尊厳もあり、一生懸命生きている人たちに見えたのです。「恥ずかしくない」。マサトは自分に言うように、口に出しておりました。
マサトはそれから運動着を用意して、ヨガのクラスに通うようになりました。そこで出会った人たちは、初めて来るマサトにも、昔からの友のように何でも語りかけてくる、とても愉快な人たちでした。個性の強すぎる人もおり、頭を悩ませることもまた新鮮でした。自分は神様と天使様に守られていると豪語する女性もおりました。「きっと重い病気なんだろう」そう同情しながら彼女の語る神様のお話に耳を傾けるふりをしておりました。
「神様は、悪魔の霊に満ちあふれたこの世界に、『光』をお与えになったのよ。その光がマサトさんを守ってくれるようにお祈りをさせてほしいの」。そう言って彼女はマサトのために長い祈りをささげていました。
ここの人たちは、仕事もできないマサトでも、くったくもなく接してくれます。マサトはいつの間にか、このヨガクラスが好きになっておりました。
神様と天使に守られているという彼女は、「人は何を持っているかではないのよ。人は何も持っていないことを知らなければいけないの」と話し、マサトの心を動かしました。
そういえばそうだな。マサトは素直に思いました。「死ぬときに持っていけるものは何にもないんだもんな」。すると彼女は「信仰、希望、愛、それだけは持ってゆけるのよ」。そう言ってほほ笑みました。
いつの間にか、彼女が言っていたように、「自分には何もない」と思えることがマサトの重荷を軽くしておりました。ずっと得ようとばかりしてきました。不思議です。何もない今のほうが、心が軽い気がするのです。力もない、お金もない、車もない。そんな自分を受け入れてくれる人たちがいることが、マサトの心を変えてゆきました。
彼女は時折意味の分からないことを口走りますが、時折、とても大切なことを教えてくれる、大切な友達になりました。病院の帰り道をバス停まで散策し、百日紅(さるすべり)の紫色の花びらを見上げました。心はなんだか穏やかで、くすぐったいように騒ぎます。いつか首都高をとばしたゾクゾクとするような興奮ではなくて、心がくすぐったいようにうれしいのです。無尽蔵に咲いているオレンジ色のコスモスを摘んで彼女に渡してやったとき、初めて心から贈り物をしたような気持ちになりました。
雲に覆われていた心に、光が差し始めました。「人のために働きたい」そんな気持ちが生まれ始め、自分に驚きました。今まで自分以外のために生きようと思ったことがあったでしょうか。
川辺でカモが身を寄せ合って泳いでいるのを彼女とともに見つめ、野花が揺れるのを見ました。彼女は神様や天使たちとお話を始めます。
不思議です。風が頬をくすぐり、それが彼女の言う天使や神様の手のひらのように思えました。娘の帰りが遅いことを心配して迎えに来ていた母のミチコが、2人を見つめておりました。ダニエルは3人を見つめて、ほほ笑んでおりました。
回復の兆しを見せたマサトに、昔の同僚から仕事に戻ってこないかと誘いが来たのもこのころでした。マサトの心は跳ねあがらんばかりでした。昔の自分に未練があったわけではなく、今ならきっと、そばにいる人のため、見えない誰かのために仕事ができる気がしたのです。
急に以前のように働けるわけではありませんから、時短勤務から挑戦してみる予定です。マサトの胸には彼女からもらった十字架のネックレスがお守りとして掛けられておりました。
十字架・・・それは罪深い人類のために、神様が与えてくださった救いの道であると聞きました。マサトは少しだけ分かる気がしていました。自分は、あまりに身勝手で、愛さえも自己中心的で、どこまでも汚い、悪臭の立ち込める存在であると思いました。神様が救いの道を用意してくださらなければ、どうやってこの身の汚れを引きずっていけるというのでしょうか。
2千年前に、神様ご自身が、両手のひらと両足にくぎを打たれ、十字架に張り付けられたといわれます。そのくぎは、マサトの罪であり、くぎを打ち込んでいるのもマサトでしかないように思えました。神様を裏切って、裏切って、自分に酔いしれて生きてきました。神様はマサトに打ち込められたくぎに血を流しながら、「あなたは何をしているか分からないのだ」そう、憐(あわ)れみの目でマサトを見つめているのです。その瞳は涙にぬれて、水晶よりも張りつめきらめいておりました。
ダニエルは、電車に乗って会社に向かうマサトを見つめておりました。神様の御手のうちにあって、ずいぶんと砕かれ、優しく、そして弱くなったマサトを見つめてほほ笑みました。
「あなたは本当の自由を知ることでしょう。もはや何物にもとらわれることはありません。あなたは奴隷のくびきを解かれて、真に自由になったのです。そのことを少しずつ知るでしょう」
そうつぶやいて大空のかなたに解けるように消えました。
そよ風が吹いています・・・風はどこから来てどこへ行くか知りません。ただ神様のみ想いのままに吹いてゆきます。マサトの人生もそのようであることでしょう。いったいどこへ導かれ、どんな光を見るでしょうか・・・。
どうか人の人生に、本当の祝福と光がありますように・・・。ダニエルは祈りを空に響かせました。
◇
さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。