サキは14歳の中学生。平均よりもちょっと太っちょで、猫と絵が好きでした。サキは今夜も四畳半の四角い部屋でお気に入りのデスクに座り、画用紙にいろいろな色のペンで絵を描いておりました。天井の照明は落として、デスクのライトだけを頼りに、暗がりの中で背中を丸めて描いています。紙に描かれてゆくのは、真夜中の森と、そこに住む孤独な猫たち。木々と猫たちが、キラキラと煌めく月光の粒を受け止めている様子でした。
ペンで色を塗り込むと、まるで絵の世界に入ってゆくような気がします。そこはとても優しくて、すべてのいのちに平等で、サキを傷つけるものは何一つなく、月の雫の滴る空は丸みを帯びてサキを包み、どこまでも深く愛してくれるところでした。
ふと、絵の手を止めると、耳の奥で声がします。(あいつまた学校休んでるよ)(まだ死なないのかな)(早く死ねよ)(死ね)それはクラスメートたちの声色でした。サキは耳をふさぐと、丸い体をより丸めて、「ううっ」とうなり声を上げました。
食卓ではお父さんとお母さんがサキのことを話し合っておりました。中学2年生に上がったころから、サキは学校を休みがちになり、しまいにはほとんど行けなくなっていたのです。「どこかいい施設でもないかしら」。「北海道のほうにそういう子の受け入れ先があると聞いたことがあるぞ」
そんなある日のことでした。サキはいつものように明け方まで絵を描いて、昼間にぼんやりと起きてきます。そして食卓のテーブルにラップをかけられている朝食をひとりで食べるのです。カーテンからは明るい光が差し込んで、サキを照らしました。それがとても嫌で、ぶ厚いカーテンを閉めました。明るい光は、今日もクラスメートたちが楽しく学校へ行っていることを教えるようです。サキは社会の波から取り残されて、置いてきぼり。そして、もう戻ることもできない気がしてくるのです。
ベランダで洗濯物を干していたお母さんが戻ってきて、サキに気付くとやけににこにこして近寄ってきました。「サキ、大伯母さんって覚えている?」サキは眉間にしわを寄せて、いぶかしみました。母親はうれしそうに続けます。「大伯母さんが、もうお年でね、いろいろと困っているからサキに手伝いに来てほしいんですって」
大伯母は、もう亡くなった、田舎のおじいちゃんの姉でした。大伯母は確か早くに夫を亡くして都会で一人で暮らしていたはず。おじいちゃんのお葬式で会ったのが最後でしたが、やけに明るくはきはきしていて、都会に住んでいる人らしくとってもお洒落な印象でした。おじいちゃんのお葬式でも、小柄な体にレースのベールが付いた小さな帽子をちょこんと頭にのせていて、かわいらしかったことを覚えています。
そんな大伯母のお手伝い・・・心は少しだけはにかみます。それでも、サキは母親を無視してご飯をごっくんと飲み込むと、自分の部屋に戻りました。(私なんて、誰の役にも立てるわけがない)そう思ったのです。しかし、それからもしつこいほどに「大伯母のお手伝い」をお母さんは勧めました。なんでも話し相手が欲しいというのです。(そのくらいなら・・・)サキの心は少しだけ揺さぶられました。
それから1週間後、サキは久しぶりに午前中に起きました。今日、ついに大伯母の家へ行く決心をしたのです。サキは眠い目をこすりながら、昨夜準備しておいた洋服に着替えだしました。大伯母の家に行くにはバスに乗って駅に行き、都会行きの電車に乗らなければなりません。誰にも会わないことを祈りながら、目深に帽子をかぶると帽子の中に髪の毛を隠し、念入りにだて眼鏡までかけて変装しました。ぶかぶかのトレーナーにジーンズを履いて鏡を見ます。(これなら誰に会ったとしても私だとは気付かない。)息をついて、久しぶりに真昼の外に出かけます。
すずめたちが大勢で電線に飛び移り、チュンチュンとサキの出陣を見送ります。久しぶりに乗るバスや、人のまばらな電車に乗るのも、まるで初めてのことのように恐ろしいことでした。(こんな昼間に学校も行かずに出歩くなんて、変な人だと思われるんじゃないかしら。)人の目が気になって肩をすくめます。ヘッドホンで音楽を流し、ぎゅっと目をつむって、目的の駅までやり過ごしました。
大伯母の住む街に着くと、背の高いビルの間にたくさんの人が歩いていました。(ここまで来れば、私のことを知ってる人はいないだろう。)サキはようやくほっとして顔を上げました。久しぶりに見た空は、雲一つない晴天。こんな都会の街にも鳥たちは、休み場を見つけて憩うています。樹木は栄養のない痩せた木ばかり。木々や鳥たちと目を合わせながら、地図の道をたどります。
大伯母の家は、駅から離れた小さな丘の、静かな住宅街にありました。青い屋根の小さな家の前には鉢植えがたくさん並んでは、かわいらしい花たちが咲き誇っておりました。呼び鈴を鳴らすと、「はあい!」と元気な声がして大伯母が出てきました。もうすぐ80になる大伯母ですが、はつらつとした少女のような可憐な声をしているのです。
「サキちゃんちょうどよかった、上がってちょうだい」。大伯母はそう言うと早速サキを台所にせっつきました。ポトスやカズラのぶら下がる青いタイルのキッチンで、「どうしてもこれが切れなかったのよ」とサキに包丁を渡します。まな板の上には大きなカボチャがありました。サキは戸惑いながらもカボチャに包丁を当てて、体重をうんとかけてカボチャをぱかりと割りました。「もっと細かく切れるかしら」。大伯母は甘えるように言いました。サキは種を取ると次々とカボチャを切っていきます。
「すごーい。サキちゃん。すごいわ」。大伯母は隣で拍手をします。そんなふうに手伝いをしているうちに、あっという間にランチが出来上がりました。ひき肉入りのオムレツと焼き立てのパン、ナポリタンスパゲッティが大きなお皿にお洒落に並べられました。「今コーヒーも入れるわね。座ってちょうだい」
サキはソファに座って大伯母の部屋を見渡しました。所々に花や緑が生けられて、刺繍やパッチワークの温かみのある作品が壁に掛けられ、ソファやテーブルも彩っておりました。骨董品のお皿や人形、愛する人たちの写真、大切な本たち・・・宝物を寄せ集めたようなかわいらしいお部屋で、まるで物語の世界のよう。
「ごちゃごちゃした部屋でしょう? 片付けが苦手なのよ」。大伯母はお茶目に笑いながらサキの向かいに腰掛けました。サキは首を振って、コーヒーに口を付けました。すると大伯母は静かに目をつむり、なにやら話し始めたのです。
「天にまします私たちのお父様。今日はかわいらしいサキちゃんを我が家に送ってくださりありがとうございました。どうかこれからの時間もよき交わりの時間となりますようにお守りください」。サキはあたりを見渡し(いったい誰としゃべっているのかしら)と不思議に思いました。
食事が終わると、大伯母は大きな木箱をテーブルの下から持ち上げて、その中からいろいろな模様のハギレと針と糸を取り出しました。そして何度も糸通しに失敗した揚げ句、「サキちゃんこれできるかしら」とサキに針と糸を渡しました。サキが難なく糸を通して見せると大伯母は大げさに喜んで、「さすがはサキちゃんね」と笑いました。それからサキは、大伯母にならって、大伯母の指示通りに布を縫う手伝いを始めたのです。大伯母はちょっとのことで目を丸めて驚いて、言葉を尽くしてサキを褒めてくれました。そんなことが、サキのこわばった心をほぐしてゆき、自然と笑顔が生まれ、気が付くと声を上げて笑っていたのです。不思議です、サキは大伯母に自分から「学校に行けていないこと」を話すことができたのです。
「クラスメートは私なんて死ねばいいと思ってるんだ」。そう言ったサキに大伯母はじっと耳を傾け、サキの両親のように「そんなわけないじゃない」とか「気のせいよ」とも言いませんでした。真剣な顔で、「なんていうことかしら」と息を詰まらせたのです。そして、じっと目をつむると、髪の毛を逆立てるような勢いで誰ぞやに話し始めたのです。
「イエス様、お聞きになられましたか? こんなことが許されてよいでしょうか?!」「だれと話してるの?」サキは不思議になって聞きました。大伯母は顔を上げると、優しくほほ笑んで言いました。「この世界には一つの道があってね、その道は神様の元へと続いているの。その道は、神様と一緒になって一歩一歩歩くものだから、こんなふうに大伯母さんはいつも神様とお話をするのよ」
「ふうん・・・」。サキにはうまく大伯母の言葉がのみ込めませんでしたが、目を落として波縫いの続きをしながら、大伯母の不思議なお祈りを聞いていました。大伯母は一生懸命祈っていました。神様とか、よく分からなくても、こんなふうに真剣に思われて祈られていることがなんだかとてもうれしくて、ぽつりと涙が落ちました。
ぽつり・・・水滴が窓を叩きました。それは次第に激しくなり、一斉に窓をたたき出し、うなり声のような雨音が小さな家を包みました。大伯母は大きなお尻を上げて立ち上がると、雨戸を締め出しサキもそれを手伝いました。「サキちゃん、今日は泊ってらっしゃい。こんな大雨では危ないわ」。そう言うと、サキの返事も聞かずにお母さんに電話を掛けました。
雨音に包まれた夜、サキと大伯母は手芸をしながら話し込んでおりました。大伯母の結婚の話、優しい旦那さんにそれは大切にしてもらったお話、子どもを持って働いて、苦労もしたお話・・・大伯母は大切ないとおしい思い出を惜しげもなくサキに話してくれました。雨音に包まれたこの夜に、サキは不思議な安ど感を感じていました。まるでサキの描く絵の世界にいるような、そんな気がするのです。ここにはサキを傷つけるものが、なにひとつないのです。
お風呂を借りて、パジャマも借りると、サキはふかふかのソファに横になり、暖かい毛布を掛けられました。なんだか今日はあんまりにいろんなことがあったような気がします。大きなあくびをして、サキは眠りの中に落ちてゆきました。
真夜中、眠りの中に金色の光が差し込みました。その光をたどるようにして、サキは暗い部屋のソファの上で目を覚ましました。不思議です。大伯母の寝室に続くドアから、光が漏れているのです。その光は、見たことのない光でした。まるでこの世の色彩ではなかったのです。サキはそっと床に足を付き、大伯母の寝室のドアをのぞき込みました。
するとそこには、ベッドの上で身を起こし、祈っている大伯母の姿がありました。花柄のネグリジェを着てナイトキャップを被った大伯母は、天から差し込むやわらかい光に包まれていて、まるで物語の世界の登場人物のようでした。光は金色の調べをしており、その調べは音楽のように曲線を描き、美しい天使さまの姿を浮かび上がらせるようでした。
大伯母の祈りはまっすぐに、光の源にのぼってゆきました。「あなたさまの愛される、かわいいサキちゃんの足元をどうかお守りください。悪魔たちに足元をすくわれないように、まっすぐにあなたへの道を歩んでゆくことができますように、どうかお守りください」と。
天使さまはその祈りを美しい歌に変えて、天へと届けてゆくのです。天使さまは、「『主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話し、ご自身の瞳のように守られた』(申32:10)・・・まるでそのように、主は彼女をきっと守られることでしょう。どうか安心して休みなさい」と言い、大伯母のまぶたに手を当てました。すると大伯母は安心したように眠りに落ちていったのです。
サキはそっと扉を閉めました。そして高鳴る胸に手を当てて、ソファに横になりました。この世界に隠された扉があることを知ってしまった・・・そんな気持ちでいっぱいでした。この世界には、その扉を開いて、神様と天使さまと共に暮らす人たちがいる。これは決して夢じゃない、きっとずっと覚えていたい、サキは強く思いました。
翌日、大伯母はおいしいスープとパンをこしらえて、サキを起こしてくれました。そして一緒に朝食を済ませたら、お別れの時間です。
「いつでも来てちょうだい。お仕事はたくさんあるの」。そう言って大伯母は手を振りました。サキも大きく手を振りました。ここに来た昨日とは、まるで別の人生が始まったような気さえするのはなぜでしょう。
「いつか私も、大伯母が開けた扉を開きたい」。そんな希望がサキの足元を照らしていました。帰り道、不思議です。サキは帽子もだて眼鏡もせずに自分の住む町に戻っていくことができました。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。