簡単な夕食を済ませた後で、ハナはダイニングのテーブルに腰掛けたまま、花瓶に生けられた西洋キキョウを見つめていました。鮮やかな緑の葉の中で、白地に薄紫色の縁取りの花たちは、なんとも清楚で何も望まず、ただそっと咲いておりました。
インスタントのアイスカフェオレを飲み干して、ハナは頬づえをつきました。ハナを背にしてリビングでは、夫が本を読んでいます。夫は優しい人でした。ハナのすることには何でも、いつも優しくほほ笑んで、文句ひとつ言ったことがありません。ハナは夫の気配に安心しながら、穏やかな空間に酔うように、キキョウの花びらを撫ぜました。
ハナの今までの人生に、こんなに穏やかな時間はありませんでした。男手一つでハナを育てた父親は、毎夜お酒に浸り、気分次第でハナをののしり、手を上げることも少なくありませんでした。ハナは早くに家を出て、幾人かの男性を知りました。自分に自信のなかったハナにとって、自分を好いてくれるというだけで、相手の男性を受け入れるに十分な理由でありました。
そんな男性たちはそろって不実な者ばかりで、ある者は支配的に振る舞い、ある者は働かず、ある者は仕事や名前さえも、うそで塗り固めていたというありさまでした。
ハナの心は「何か」を求め、いつもヒリヒリとうずいておりましたが、(生きることや愛することはこういうことなのだ)と自分に言い聞かせておりました。部屋の明かりを落として、さめざめと泣いたこともありましたが、そんな時は大好きな音楽や、鉢植えの花たちや、網戸から吹く風が寄り添うように慰めてくれたのです。
だからこそ、ハナはどんなに親密な人たちよりも、そんな音楽や花や風を近しく感じて、それを“神様”と呼んでいたのです。
夫は、出会った頃から変わることなく、ハナを守ることを生きがいとしてくれました。そんな夫との結婚で始まった暮らしは、夢見ることすらはばかられてきた、終わらない春休みのようでした。
2人の結婚生活は、今年で3年目を迎えます。どこへ行くにも2人は一緒で、年々絆は強まって、小鳥のさえずりも祝福する2人の暮らしでありました。
明日、ハナは結婚して初めて、夫を離れて一人旅に出る予定を立てています。ハナは今までの人生を思い返すごとに、この夫と出会うまで、どうやって自分は生きてこられたのだろうかと不思議に思ってきたのです。いつも見えない暗闇に追い立てられるようにして、死ぬまでその鬼ごっこは続くのだと思ってきました。この夫と出会うまで、命がつながれてきたことがとても不思議に思えていました。それは決してハナ自身の強さではありませんでした。この世界の不思議な力が、ある時は慰めとなり、ある時は励ましとなり、またある時は希望を与え、命をつないでこられたとしか思えないのです。
ハナは明日から、山奥にある寂れた温泉街で2泊を過ごす予定です。一人きりになって、あの頃の自分を生かし続けた“力”を探してみたくなったのです。
夫は「たまには一人で出かけることもいいだろう」と、ハナの旅を理解してくれました。そして夫も、撮り溜めていた番組でも見て、出前の料理を楽しみながら一人の時間を満喫するつもりでいます。
翌日、夫は少々大げさな心配と愛情表現をして、仕事に出かけました。ハナもキャリーバックの中身を念入りに確認すると、大きく息をついて出発しました。
ハナの住んでいる郊外から電車で20分ほどかけて、大きな街の駅へと行き、特急列車に乗り換えます。今朝ニュースでは梅雨の始まりを告げていました。空一面に暗い雲がかかっており、やがて雨も降り出すでしょう。
車窓からは、雲に覆われた田んぼの風景が続きます。ぽつりぽつりと小雨が窓を叩き始め、あっという間に大降りになりました。景色は次第に緑が多くなり、建物はぽつぽつとしかなくなりました。
ハナの目指すところは、北の街の秘境といわれる温泉宿です。20代の半ばの時に、ハナはここに来たことがありました。まるで死に場所を探すようにたどり着いた場所でした。あれから10年たっているというのに、こけむした無人駅は記憶と変わらずに佇んでおり、10年前の自分も一緒に駅に降り立ったような気がしました。風が記憶を運んできます。あの頃の空虚な世界が眼前に迫り、景色は灰色に染まるようです。
宿の支配人が駅までハナを迎えに来てくれて、白いバンに乗り込みました。険しい山道が続き、バンは大げさに揺れました。小さな窓からはうっそうと茂る緑と落石のあとが続きます。谷底には川が流れており、この先には大きな滝があることを思い出しました。(その滝に行こうとしたの。)10年前の陰鬱(いんうつ)なハナが、ぼそりとつぶやくのが聞こえるようです。
通された部屋は8畳ほどの広さの簡素な和室でした。荷物を置くと窓辺に行き、窓から一望できる渓流の流れを見つめました。先ほどよりも滝に近いからか、激しくしぶきを上げながら川は流れておりました。それをじっと見つめる差し迫った自分がいます。(もう少しも歩けないの。)そう言って泣くように笑っています。川は(つかれたね)と慰めてくれるようでした。うっそうと茂る緑たちも、大きな枝の手を広げ、(おいで)(おいで)と招いています。
その時、宿の人が戸をノックして、「お風呂の用意もできていますから、どうぞお食事までゆっくり入ってきてください」と声をかけてくれました。ハナは振り向くと、お風呂の支度を持ってドアを出ました。
お風呂は渓流の見渡せる露天風呂で、大きな木々に囲まれており、それが囲いになっておりました。洗い場で、ハナは体を洗いました。(昔の自分は、もう何日もお風呂にも入っていなかった。だから、ゴシゴシとよく洗ってからお湯につかったものだった。)執拗に体を洗っている過去の自分が見えるようです。まるで、神様のもとに行く前に禊をしているように。
次第にあたりは暗みを帯びて、ランタンの明かりが浮かび上がってゆきました。ハナはお湯につかると、湯面に落ちて揺れている木々の葉っぱを見つめました。不思議です。あたりは暗くなってゆくのに、色鮮やかな色彩に満ちてゆくようでした。暗闇の中に色の粒が浮かび上がって、その粒は、水色、ピンク、緑、黄緑、紫、青とさまざまな色彩を帯びており、粒の中には今までのハナの人生の瞬間がそれぞれに映っているのです。その多くが、悲しみの記憶でした。一人きり置いてきぼりをされたとき、一人ぼっちの下校道、泣き明かした朝の、カラスの鳴き声まで聞こえるようです・・・。しかし、そんな時もハナは本当の孤独ではありませんでした。誰に見捨てられようとも、「神様」だけはハナを温かく包み、見守っていたのです。
ハナはあたりを見回しました。するとこの瞬間にも、えもいわれぬ大いなるまなざしがハナを守っている気がするのです。それは、暗闇の中の色彩・・・そしてさわさわと音を立てる風、そして大きな山のアジサイの、花びらの一枚一枚が語りかけるように、声がはっきりと聞こえるのです。
(あなたが感じてきたことはまことにそうです。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめしている」(詩19:1)と言われているのですから。万物は神様の心をあますことなく伝えています。あなたはその声を聞いて、今日まで生きてこられたのですから。)
その声は、とても温かな響きであって、どこかにいるはずの、優しい父や兄の子守歌のようでした。すると、ランタンの黄色い光が、それは大きな羽を浮かび上がらせていったのです。ハナは羽のなかに包まれておりました。フルートのような美しい音色が聞こえます。
ハナは思い出しました。10年前もここで歌を聞いたことを。まるで風がハナを慰めるために歌ってくれたようでした。あたりを見渡すと、三日月のような美しい天使さまの横顔が、暗闇に金色の糸のように浮かび上がりました。
(あなたが呼び求めた“神様”は、あなたをそれは深く愛しておられます。そして胎を出た日から、今日まであなたをお守りになりました。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの。わたしはあなたを愛する」(イザヤ43:4)。神様のまなざしがそう言っておられるのを、今までだって感じてきたはずです。)
まるで愛する妹へ聞かせる子守歌のように優しく、そしてどこか懐かしい歌にハナは耳を澄ませて目を閉じました。(・・・そうだ・・・私は確かに守られてきた。)ハナは陶然として確信しました。
気が付くと、ハナは布団をかけられて、部屋で目を覚ましました。心配そうに宿の主人たちがハナをのぞき込んでいます。「目がさめたぞ」。そう言って顔を見合わせています。戸惑うハナに宿の人たちは、お風呂場でハナがのぼせて運ばれたことを話して聞かせてくれました。
ハナはだるい体を起こして、頭を下げ謝りました。「食事もまだですが、食べられますか?」そう聞かれ、「とてもおなかがすいているんです」と答えると、くすりと笑いが起きました。
ハナは、10年前になぜ滝へと向かわなかったか、はっきりと分かったようでした。目の前に運ばれた夕食をかみしめると、なぜか涙がこぼれました。
ハナはいつかその“神様”にもっと身近に出会うでしょう。神様はそのための道をずっと用意してくださっていたのですから。ハナのいのちを大切に守りながら、神様はハナと会うその日を用意し、待ち焦がれているのですから。神様は、ご自身の名を呼び求める者を、それは深く愛されて、(おとめたちのうちにわが愛する者があるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ)(雅歌2:2)そう喜んでくださるのですから。
◇
さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。