リリリリリ・・・。今眠ったばかりだと思ったのに、もう目覚ましが鳴りました。昨日の勤務は遅番で、夜遅くまで働きました。腰が痛み、なかなか寝付けなかったというのに、今日は朝7時からの勤務です。腰をかばいながら、アキラはベッドから這い出しました。
*前回のお話はこちら:(み使いダニエル)アキラのものがたり(上)
アキラの仕事先はご老人を介護するケアホーム「ひかりの家」です。床に足をついたら、15分で支度です。顔を洗い、お湯を沸かしてカップスープに食パンの簡素な食事をとると、歯を磨いてあっという間にジャージ姿に着替えます。玄関に置きっぱなしだったリュックを背負ってアパートの階段を駆け下り、自転車に乗りました。6月の朝の澄みきった風がアキラの頬をかすめます。道端のアジサイたちの声援が聞こえるようです。(がんばれ)(がんばれ)
仕事は決して楽なものではありませんでした。ほとんど立ちっぱなしで休む間もなく、足腰の弱った、または寝たきりのご老人を見守り、着替えに始まり、排せつ、食事、歯磨きと、ご老人たちの手足となって働くのです。今日は、出勤してまず朝ごはんの準備をします。そして食前の体操を終えると、一人ではお箸も持てないおばあさんに、スプーンで料理を運びます。おばあさんは少しずつしか飲み込めないため、1回の食事に1時間はゆうにかかってしまいます。おばあさんのグレーに染まった頭はぼさぼさでした。朝、櫛で梳いてもらえなかったのでしょう。そんな余裕もなくなるほどに、ここで働く誰もが疲れきっていたのです。
ここに勤め始めた1年前、アキラの心は喜びでいっぱいでした。以前の職場で同僚にひどくなじられて、心を病んで仕事も住む場所も失ったアキラでしたが、助けの手を差し伸べてくれたのは炊き出しをしていたキリスト教会の人たちでした。教会の人たちは自分のことのように、アキラの相談に乗ってくれました。それからたくさんの人の力を借りて、ようやくこの「ひかりの家」に就職がかなったのです。
「やっと人並みの暮らしができる。そのためだったら何でもできる」。アキラはそう喜びました。はじめての経験ばかりで戸惑いながらも、一生懸命仕事を覚えました。散歩の時間は、仕事の中でもつかの間の休息でした。車いすを押しながら、ご老人たちと川のフナにパンをやります。こんなふうに川の魚の跳ねるのを見つめたのは、幼いころ以来でした。ご老人たちはそれぞれ個性豊かで、幼子のように愛くるしく、または憎らしく思うこともあって、湧き上がる新鮮な気持ちも楽しみました。
教会の人たちも、アキラの仕事をよく聖書の言葉で励ましてくれました。アキラもはじめてのお給料で聖書を買って、自分で読むことを覚えました。アキラは寝る間際に、または仕事の休憩中に、覚えたての「神様」に祈るようになっていました。いるかどうかもまだ分からず、おぼろげな神様にただ心の叫びをぶつけることが、アキラの心を支えました。「神様つらいよ」「苦しいよ」。アキラの祈りはそんなものばかりでした。
やっと人並みの暮らしができると思ったけれど、これが人並みの暮らしと言えるのかと思うようなものでした。ホームでは1週間に2度も3度も、真新しいシーツに交換しているけれど、自分はもう何カ月も同じシーツで寝ているし、食べ物も料理のいらない粗末なものばかりだし、いつもくたくたに疲れていて、部屋は寝るために帰る所・・・それほどに仕事に身をささげているというのに、お給料は17万に毛の生えたようなもの。いつ転んで骨を折るか、喉に物を詰まらせるか分からないご老人たちを何とかして守りながらも、自分のことすらも守れないもどかしさを抱えました。
ある日のこと、寝たきりのキクさんのおむつを取って、お尻をきれいに拭き終わったときでした。新しいおむつを手に取って振り向くと、キクさんは汚れたおむつを握りしめ、手もパジャマもべっとり汚しておりました。気付くとアキラはギラギラと、キクさんをにらんでいたのです。それは、アキラの夢見た「介護職員」の姿とはあまりにかけ離れたものでした。キクさんはアキラのまなざしに怯えていました。
今日も骨の髄まで疲れ果て、食べかけのカップラーメンを放ったまま、アキラはパジャマに着替えもせずに布団に包まりうとうととしていました。「神様・・・」。果てしない故郷を想うように、まぼろしの父を探すように、アキラはそうつぶやきました。部屋の角に、悪魔の目玉が浮かび上がっておりました。その目玉はねたみに狂って血走っており、神様を探し出しているアキラの心をどうにか砕こうと策略を練っておりました。悪魔ははらわたのちぎれる思いでおりました。
「これ以上彼を試みても、神様へのあこがれを断ち切ることはできないでしょう」。そう言ったのはダニエルでした。ダニエルはアキラのもとにそっと姿を現すと、だらしなく開かれたアキラの指を握ってささやきました。(求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい、そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。)(マタイ7:7~)ダニエルは黒糖のような瞳でアキラを見つめました。アキラの心は、コンコンコン、と見えない扉を叩き始めておりました。夢の中で扉を叩く腕にさえ、力が入らないほどに疲れきっていながらも・・・。
ある夜勤の夜でした。今夜もナースコールが鳴り続けます。ナースコールの主はたいてい池田さんという車いすのおじいちゃんでした。池田さんは注文が多く、「布団がめくれた」「シーツにしわができた」と、ことあるごとに呼び出しました。また夜のうちに6、7回もトイレに行くので、そのたびに助けなければなりません。夜は2時間おきに、寝たきりのおばあちゃんたちのおむつ交換がありますし、ホームの掃除もするために、この晩もアキラは駆けずり回り、休む間はありませんでした。
明かりの落ちたホームでモップを握りしめながら、アキラは「神様」と呼びました。そう呼ばなければ、心が黒い何かで埋め尽くされそうだったのです。神様はただ、沈黙しているように思えました。じっと口を閉ざしながらも、しかし、アキラから目を離さずに、ただ見つめているようでした。
今夜だけでも10回目のナースコールが鳴りました。アキラはため息をついて池田さんの部屋に向かいました。
「ご用でしょうか」。扉を開けてそう言うと、「ちょっと起こして」と池田さんは言いました。上半身を抱えられて身を起こすと、池田さんは「月を見たい」と言いました。アキラは戸惑いながらも池田さんを車いすに乗せ、大きな窓のある廊下の突き当たりへ連れてゆきました。カーテンを開けると満月の白い光が差し込んで、池田さんの横顔を照らしました。
あこがれるように、求めるように、池田さんは月を見つめていました。それはまるで、「自分はどこへ行くのか」と、神様に問うているようでした。アキラははじめて、人のはかなさを心に覚えるようでした。神様は、このはかない「人」というものを、どんな思いで見つめておられることかと思いました。どんな悲しさで、または愛おしさであわれんでいるのか、と。アキラは何か言いたいけれど、何も言えず、ただ、そっと池田さんの肩に手を置きました。
あわただしい朝がやって来ました。池田さんはあまり眠れなかったのか、めずらしく寝坊して朝のコールは鳴りませんでした。月を見つめていたあの瞳で、夜通し天井を見つめ続けたのかもしれません。
アキラは冷たい水で顔を引き締めると、朝食づくりを始めました。朝食の準備が終わると、みんなを起こして着替えの時間です。なぜでしょう、今朝は少しだけ丁寧に、おばあちゃんの靴下を履かせ、髪を櫛で撫でつけてやれました。おばあちゃんたちのか細い腕を優しくとって、いつくしむように袖を通してやれたのです。
朝の職員と交代すると、アキラはホームを出て自転車にまたがりました。ホームの前に生けられているゼラニウムが、(おつかれ)(おつかれ)とアキラをねぎらってくれるようでした。家に帰ればすえた布団が待っています。おなかがペコペコだけどまたカップラーメンで用を足すしかなさそうです。それでもなぜか、アキラの心は晴れやかでした。
思えば部屋を借りたばかりのころ、温かい布団で眠れること、熱いシャワーを浴びられること、たまの贅沢で湯船をためて首までつかること・・・それだけのことがどんなにうれしかったことでしょう。熱い湯船につかりながら、「神様、感謝します」と泣いた日のことを思い出しました。簡素な造りのバスルームは虹色の粒子できらめきだして、まるでアキラの心を神様が喜んでくださっているようでした。
与えられた仕事へのときめきも、いつの間にか失っていました。ひとりひとりのご老人たちに刻まれたしわのひとつひとつも、しわくちゃの絹のように柔らかい手も、愛おしく思って働きはじめたはずでした。いつの間にか擦り減って、心もすっかり鈍くなっていたのです。
いつか、「自分の人生はどうしてこうも苦しいことばかりなのだ」と、教会の人に漏らしたことがあります。その人は聖書を開いて、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)と読んで見せたのです。その時は、「あなたは苦労をしていないからそんなことが言えるんだよ」と思いました。しかし今、不思議とその言葉にうなずけるような気がするのです。
翌日もアキラは自転車で風を切ってホームへ向かっておりました。(がんばれ)(がんばれ)風たちの声援に背中を押されてペダルを漕ぎます。
散歩の時間は近所の川へ、フナを見に行きました。おばあちゃんたちも池田さんも、笑顔を見せてフナにパンをやっていました。薄曇りの午後でしたが、陽光は優しく降り注いでおり、まるで神様のまなざしを浴びているようでした。空の真っ白い光の中に、十字架が見える気がします。
アキラは光の中の十字架を見つめて、あこがれました。そこにはまったく完全な愛が現れているといわれます。この不完全でゆがんだ世界に、唯一の真実が、十字架に刻まれているというのです。
まるでおとぎ話の世界です。アキラは、「信じてみたい」と思いました。だって、風はどこから来るのでしょう。光はどうして無限の色彩できらめくのでしょう。目の前のアジサイの造りのひとつひとつも、そしてアキラの体のひとつひとつも、なんて不可思議で美しく造られているというのでしょう。
「信じてみたい」。もう一度そうつぶやいたとき、神様の腕に抱かれているように、風が温かく感じました。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。