――しかし、彼は、
われわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれど、口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く子羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。(イザヤ書53章より)
*
七色のネオンが朝まできらめくビルディングの谷間でのことでした。
「ねえ、一緒に飲まない?」。サテンのロングドレスに、くれない色のショールで寒そうに肩を隠したマリヤは、道行く男と目を合わせて、甘い声でささやきます。
「強いお酒でくらくらしようよ」。重く垂らしたまつげからのぞく、子犬のような黒目。厚ぼったく引いた口紅。厚化粧で隠していても12歳にも13歳にも見えるほど、あどけなさを残したマリヤです。
男は誘われるままにマリヤに近づき、か細い腕を取るとビルディングの中へと消えて行きます。マリヤはほっと安どして、男の肩に身をもたれました。
背徳の街の夜は、アルコールの甘い匂いとむせかえるような香水の匂いが漂って、何かしらの事件を予感させます。明滅する色とりどりのネオンが、夜の間に頻発するたくさんのドラマを彩ります。
この街では、誰もが主人公のよう。富める紳士にやけっぱちの労働者、悲劇の人妻、酩酊する亭主、悪だくみの少年、野良犬のような少女・・・。男も女も、役柄にふさわしく気取っては、それぞれの物語を生きるのです。
マリヤは、ほとんど何も持っていませんでした。しかしわずかながら持っているものもありました。それはささやかな美貌と、つかの間の若さです。
この街には、マリヤと同じような少女たちがわんさかいます。少女たちは知っていました。背徳の街にはそんな少女たちを欲しがる者たちがたくさんいることを。そして自分たちはしばらくの間は、それで生きていけるということも。
少女たちのほとんどがそうなってゆくように、マリヤの目にも、怪しげな魔力が宿り始めておりました。その魔力は、蜘蛛の巣のように人の心をからめとり、そして、自分が住んでいる所のように暗く深い闇の中へと人を引きずり落とす力です。
背徳の街に吹く風は、悪魔の支配下にありました。ですから風はビルの谷間を吹き荒れて、マリヤの耳にささやきます。「もっと重くまつ毛を垂らしなさい、もっと厚く紅を引きなさい」。「おまえは父や母のいる、あたたかい家の子どもじゃない。その代わり、私のかわいい子であるのだから」
風はごうごうと吹き荒れて、ビルのすき間に吹き溜まります。その吹き溜まりはあまりに暗く、底を見ることができませんでした。街の至る所に、そんな吹き溜まりが幾つもあって、それらはみんなつながっておりました。その暗がりのつながりこそ、この世界の支配者、悪魔のすみかでありました。
悪魔・・・それは、不信、不寛容、うそ偽り、妬み、憎悪、そのものの姿をしていました。それは醜い姿なので、闇に紛れて生きていました。悪魔はなによりも、光と愛と真実を、心がちぎれるほどに憎んでいました。
背徳の街には、悪魔がかわいがる子どもたちがわんさか住んでおり、マリヤもその一人です。そしてかわいい娘たちが、自分と同じように「光や愛や真実」を憎むように育て上げるのです。それは上手に育てるので、娘たちは知らず知らずのうちに、悪魔を親のように思い、心を一つにしてゆきます。
マリヤは幼いころから、自分の家をたたき出されることが何度となくありました。大酒飲みで働かない父親は、自分へのいら立ちをマリヤにぶつけていたのです。
「反省するまで帰ってくるな!」。寒い冬の夜であろうと、マリヤはコートも着せてもらえずに外に出されました。凍えた風は氷の結晶をはらみ、夜霧のように美しくおもてを輝かせておりました。
マリヤは両手をこすり合わせ、玄関の前の犬小屋をのぞき込みました。犬小屋の中で同じように凍えていた犬のネオと見つめ合い、小屋の中に忍び込みます。そしてネオと抱き合って、長い夜を過ごしました。
まぶたの裏に浮かぶのは、優しいお父さんとお母さん、笑顔の溢れるあたたかい家の情景です。テーブルの上にはランプがともり、オレンジ色の明かりに食卓は包まれています。そしてお母さんの手作りのアツアツのシチューと焼きたてのパイ。マリヤはお父さんの膝に乗り、一緒に歌を歌うのです。
・・・そんなあたたかい家庭を夢見ながら、冷たいごわごわの毛のネオをギュッと抱きしめました。「いつか一緒にそんな家に行こうネ」。ネオと約束をして、お互いの吐息で温め合いました。
マリヤがどんなにぶたれても、母親は止めてくれませんでした。母親も父親を恐れており、ただせっかんが終わるまで、見ないふりをして震えていました。マリヤが生まれた日、父と母は手を取り合って「力を合わせてマリヤを守っていこう」と誓い合ったはずでした。しかしいつからか、2人の歯車はかみ合わなくなっていったのです。
そして父親はお酒を覚え、高ぶる気持ちを当たり散らすようになっていました。いつか好きだった哲学書や、神様の言葉が書かれているという本なども、開くことはなくなっておりました。小さな家は、怒りやさげすみに満ち始め、誰一人心安らぐことはできない家となっていったのです。
ある冬の夜、マリヤはひとしきりせっかんを受けたあと、「この家を出よう」と決意しました。体のあちこちがきしむように痛んでいました。とても寒い夜でしたから、痛みもいっそう刺すようでした。マリヤはネオを置いてゆくことが気がかりで、犬小屋をのぞき込みました。すると、ネオは犬小屋の中でまるで置物のように、冷たく硬くなっていたのです。マリヤは体がバラバラに砕けるほどの痛みにあふれ、朝まで大声で泣きました。
日が昇ると、マリヤは泣き疲れた体を引きずって庭に大きな穴を掘り、町中の野菊を腕いっぱい摘んで、ネオを飾って埋めました。そしてマリヤは、リュックサックをひとつ背負って、育った家とふるさとの町を後にしたのです。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。