マリヤを乗せた列車はガタゴトと、線路の上をひた走りました。幾つもの村や町を通り過ぎて、終点の「背徳の街」を目指します。
新聞やニュースで「背徳の街」のことを聞かない日はありませんでした。その街は、昼も夜も眠らずに煌々(こうこう)と輝いており、行き場のない男女や幼子でさえ仕事にありつけるというのです。
毎日事件が起きるといいます。しかし、素晴らしいこともたくさんあると聞くのです。食べたこともないようなおいしいものもあり、飲んだことのない南の果実の飲み物もあり、聞いたこともない美しい音楽に、見たことのない甘美な踊りを踊る人もいるというのです。
人間の英知を駆使して、天まで突き抜けんと美しい建物がそびえ立っており、そこに暮らす人たちはまるで天人のように優雅に暮らしているといいます。「背徳の街」には、お金で買えないものはないといううわさがありました。また、若さで買えないものもないといううわさも、まことしやかにささやかれていたのです。
「『背徳の街』にさえゆけば、こんな私でも『あたたかな光のともる家』が手に入るのかもしれない」。そんな夢をほのかに胸に抱いて、マリヤは列車に揺られていました。
マリヤを乗せた列車は、刻一刻と「背徳の街」に近づいていきました。あふれんばかりの星くずを見せていた空は次第に、赤紫色のスモッグに覆われていきました。スモッグは、次々に色を変えていきます。赤紫色から青紫色、ピンク色とオレンジ色を混ぜ合わせ、水色も加わります。
不思議そうに空の色の変わる理由を探していると、地平線のかなたの背徳の街の輝きが空ににじんでいることに気付きました。マリヤの背筋は、恐怖と期待でゾクゾクと震えました。
列車は大きなサイレンをとどろかせて、「背徳の街」へと着きました。マリヤは、肩をすぼめて人ごみをかき分け、列車を降りました。目を鳥のようにまん丸くして、ビルディングが空を埋め尽くすようにそびえ立ったさまを眺めました。ビルディングの隙間に小さな空が開け、白昼の月が昇っていました。
駅構内にはたくさんの物売りがおり、異国の香りのせっけんや、珍しい漫画本、干物などが売られています。そして階段の隅や物陰などに、段ボールを敷いて暮らしている人もおりました。
駅を出ると、ビルディングの窓の至る所に「働き人募集」のチラシが貼ってあり、それを見てマリヤは安どしました。仕事に困ることはなさそうだと思ったのです。
街は、目がちかちかするほど色とりどりの看板とネオン光に彩られ、嗅いだことのない甘い匂いがただよいます。歩く人の一人一人も、田舎町では会ったことのないような異様な雰囲気。肌を露出して化粧をし、ファッションを楽しむ人々、高級な毛のコートを着た貴婦人は、これから社交界にでも行くのでしょうか。灰色の背広を着た労働者も至る所に歩いており、ぼろをまとった小さな子どももおりました。ホームレスのおじさんは、リヤカーに毛布と犬を載せています。ピカピカに磨かれた黒塗りの車からは、帽子をかぶった紳士が手を引かれながら降りてきました。
マリヤは街の隅の安いモーテルに、その日の宿を取りました。ベッドに腰掛け、サイダーをごくりと飲んで、深いため息をつきました。「本当にこんな街でやっていけるというの?」。そう思い、不安でした。
部屋の壁紙は所々が擦り切れ、壁の向こうではネズミが駆け上がる音がします。小さな窓の向こうには、すぐに隣のビルがあり、空も見えません。窓から身を乗り出して空を探すと、ネオンを映した七色の闇夜が広がっておりました。星は一つも見当たりません。まるで、空の星が地上のネオンに取って代わられたようでした。
「あたたかな光のともる家」のことを考えました。そんな家がこの街で手に入るというのでしょうか。(そんなのムリだ)。そんな思いがマリヤの心をかすめました。(私はこの街で、たった一人で行き倒れるに違いない)。そうつぶやいて、ふふ、と笑いました。逃げるように故郷を出ても、どうせどこにもたどり着けない。そんな恐怖に足がすくみました。
その時、部屋の暗がりから声が響きました。「おまえは一人ぼっちなんだね?」。その声は、マリヤの心の場所を的確につかみ取り、心臓の芯まで貫くような、甘くあたたかな響きでした。マリヤはあたりを見回し、声の主を探しました。
「誰?」。さびれた部屋には誰もおりません。でも確かに、誰かがいる気配がするのです。壁の向こう、戸棚の中、本棚の影、ベッドの裏に・・・。
「おまえは親のない子だね。でももう大丈夫だ」。その声は、部屋の至る所、闇のある所から交互に響きました。「誰?・・・どうして大丈夫なの?」。マリヤは目を丸めて、声の主を探しました。
「私がいるからだよ」。ようやく、マリヤの目は、その姿を捉えました。誰もいないのに、確かにいる。そのあたたかな声の主が見える気がするのです。
「あなたは、だれ?」。「わたしは、お前の、お父さんだよ」。「お父さん・・・?」。その響きに、乾いた心から染みだすように、涙がツーっと流れました。「・・・おとうさん・・・」。「そうだ。お父さんだ。私はこの世界の支配主。名は闇、または悪魔とも呼ばれる。マリヤ、おまえのことをよく知っている。なぜならおまえは闇の子、私の子だからだ」
「闇の子?」。「ああ、そうだ。この世界には、光の子もいる。知っているだろう?あたたかな光のともる、あたたかな家の子だ。しかし、お前はそうじゃない。あたたかな光に見捨てられ、もだえ苦しんでおまえは育った。・・・ずっとお前を見ていたんだ。おまえの喜びを知っている。おまえの悲しみを、知っている。おまえの涙を知っている。私はおまえを知っているんだ。おまえは、光に見捨てられた子ども・・・闇の子だ。そんな子どもたちが、この世界にはわんさかいる。私はね、そんな子どもたちを拾い集めて、闇の子どもたちの、お父さんになってやりたいんだよ」
優しい声色がマリヤの心にじかに響きます。マリヤは涙をぬぐい、濡れた手を空中にかざしました。そして、確かにいる、その「父」の頬を両手で包み込んだのです。
「・・・私のことを知っているのね?」。見えない「父」は、マリヤの手のひらに頬を押し当てて言いました。「ああ。知っているさ、なにもかも。お前のためどれだけ涙を流しただろう。そう、だから誓うよ。私はおまえへの愛のゆえに、最後の涙の一滴まで、流すことを」
マリヤの孤独はそのとき、癒やされた気がしました。自分の痛みも悲しみも、すべて知っている人がいる。それは、言葉にしがたい喜びでした。
「悪魔・・・いえ、お父さん・・・私も・・」。「なんだい?」。「そんなお父さんのためだったら、最後の血の一滴まで、お父さんのために流すでしょう」。その瞬間、あたたかい何か・・・愛と呼ばれるものの気配が、マリヤと「お父さん」、2人の体を包みました。「ありがとう、お父さんのために誓ってくれたね」
その晩、見えない父は、マリヤの隣に腰掛けて、話をしてくれました。それは悲しい、父の道のりの話でした。
「いいかい、聞きなさい。お父さんはね、光にあこがれて生きてきたんだ。光、愛、まこと・・・それはどんなに素晴らしいものだろうか。お父さんは、どんなにそれを欲したことだろうか。しかし、お父さんの胸には消えることのない疑問があった。それが与えられる者と、与えられない者がいるということだ。・・・この世界にいるといわれる『神』はこの世界をつつがなく治めているはずではなかったか。それがどうした、この世界のありさまは。偽りと暴虐にあふれたこの世界・・・私の悲しみは、この身を引き裂き、私の叫びはこの世界にこだました。そして一つの挑戦が始まったんだ。・・・光への復讐、そう、神への挑戦と言ってもいい。私は、この世界のあらゆる憎悪、報われぬ涙や孤独を集めて、神に戦いを挑んでいるんだ」
マリヤは悪魔に身を寄せて、ささやきました。「その通りね、お父さん。もし神様がいるとしたならば、見捨てられた私たちは一体どうすればいいというのでしょうね」。「お前もそう思うかい」。悪魔はくっくっと腹の底をよじらせて泣きました。
「なんてかわいそうなの、お父さん。確かに理不尽な世の中よ。でも、大いなる神、光のようなその方は、きっとどこかにいるというわよ。その方に戦いを挑むなんて、そんなことはあまりにも無茶よ」
「おまえは、分かってくれるんだね」。悪魔は並びの悪いがたがたの歯を見せました。マリヤはその歯並びに、胸が締め付けられ同情しました。「・・・お父さんの足が見えるわ。その足はもう幾億年も歩いて、歩き疲れて歪んだ足。お父さんの手が見えるわ。その手は手の届かないものに焦がれて、伸ばし尽くして伸び切ってしまった手」
悪魔はマリヤを抱き寄せました。「おまえには私が見えるかい。あまりに私は醜いので、このように闇に身を隠しているというのに」。「はい、はっきりと見えるようです。その痛みも、孤独も見えるようです」。「マリヤよ。私のかわいい子よ。私の悲しみを分かるんだね。その気持ちこそが私の心を癒やすんだよ」
マリヤは見えない手を取りました。ごつごつと骨ばった指の先の、伸びきったかぎ爪をマリヤは愛おしみました。マリヤは熱に浮かされたように、つらつらと言葉を言っていました。「お父さん。お父さんと私は・・・こころひとつ、ことばひとつ」
まるで何かに操られているようで、それでいて心地よくマリヤはそう言いました。悪魔はマリヤを見つめ、指でマリヤの鼻を撫で、その言葉を繰り返しました。「そう、おまえと私は、こころひとつ。ことばひとつ」
目が覚めると、マリヤはサイダーを握りしめたまま、布団もかけずにベッドに横になっておりました。サイダーは床にこぼれ、茶色く染みになっていました。
まるで熱に浮かされたように、昨晩の不思議な出来事を思い出しました。窓からは朝日が差し込んでおり、「お父さん」と呼んでいたものの気配はありませんでした。しかしマリヤは、自分の心臓に「お父さん」の指の先のかぎ爪が食い込んでいるような気がしました。心臓の真ん中に食い込んだ、お父さんのかぎ爪の痕跡は、熱く火照り、うずきます。その熱こそ、「愛」と呼ばれるもののような気がしました。
不思議です。自分はもう一人ではなく、そして何も怖いもののないような気がするのです。不安や恐怖は跡形もなく消えており、その代わり、背中に燃える炎を背負っているような気がするのです。
「あたたかな家・・・」。マリヤはそうつぶやきました。(あたたかな家なんて、私はもう望まない。あたたかな家を私に与えてくれなかった神様に、命を懸けて報いてみせる)。そう決意して唇を噛みました。
悪魔はそのかぎ爪にマリヤの血をしたたらせ、大きな笑い声を空にとどろかせて風を生みました。その風は、ビルのすき間に流れ込み、街行く人たちの耳元に声なき声で語り掛けます。
「いいニュースだ、子どもたち。また一人、妹ができたぞ」。街行く人の心臓には、たいてい同じかぎ爪でえぐられた跡がありました。ですから皆、不思議と喜びが湧き上がって、ほくそ笑んでしまうのです。兄弟が増えたことがうれしいのでしょうか。暗闇を行く道連れが増えたことがうれしいのでしょうか。
「これっきりの命だ、最後まで楽しくやろうぜ」。それが兄弟の合言葉です。そして、皆が命を燃やすその熱で、背徳の街は今夜も罪で燃え盛ります。姦淫、偽証、不品行、泥酔、殺人、盗み、ねたみ、ののしり、殺意・・・罪の燃えるその熱こそが、悪魔の食べ物でした。
悪魔の力は底知れぬものでした。悪魔の武器は「言葉」です。あらゆる偽りを人々の耳元にささやいて、憎しみの火種を人々の心に生むのです。そしてあれよあれよと火をおこし、罪へといざなってゆくのです。
罪は麻薬のようでした。罪は人々をしびれさせ、快楽に身をよじらせます。そして、もっともっとと罪を欲するようになるのです。自分が罪を犯すばかりではなく、隣人を罪の世界に陥れることもまた、快楽の一つでした。そして、罪は倍々に膨れ上がり、家一つ、街一つが大火事になることも珍しいことではありません。
マリヤがまだ赤子だった頃、悪魔はちょうどその家の上空をよぎり、無垢なマリヤを捉えました。それからずっと、マリヤに目星をつけていたのです。
悪魔は、マリヤの父の耳たぶに上手にささやきかけました。「情けない父親だ、妻も、お前の稼ぎが悪いことをばかにしているんだぜ」。マリヤの母親の耳たぶにもささやきます。「とんだ外れくじを引いたって、みんな笑っているよ」
2人の仲がこじれ始め、壊れるまでに大した時間はかかりませんでした。そこからはお手の物。一つの家庭が火を噴くほどに憎しみ合うことなど、赤子の手をひねるほどに簡単なことでした。
この世界は悪魔の遊技場のようでした。広い世界を飛び回って、今日も餌食を探します。そして遊んで疲れたら、お気に入りのねぐら「背徳の街」に帰るのです。(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。