スポーツジムのヨガスタジオは一面が鏡張りで、昔の倍はあるのではないかというほどに肥え太ったミキの体をあからさまに映し出しておりました。ミキはスパッツに大きめのTシャツ姿で、一生懸命ヨガのポーズを取っていました。来週は姪の結婚式。きつめのスーツワンピースを奮発して買ってしまったため、何がなんでももう少し痩せておかなければと意気込んでいるのです。
真昼のスタジオには、「世の中にはこんなにも暇な主婦がいるものなのね」と感心するほど人があふれ返っており、皆一生懸命プロポーションの管理に努めていました。ヨガのあとのお風呂は格別です。スタジオの中にある広々とした浴場で、汗を流してゆっくり人工温泉のお風呂につかります。ここのお湯はお肌がすべすべになるためにとっても気に入っているのです。
このスタジオは、デパートの中に併設されているために、帰りはついついいろいろな階を見て回ってしまいます。「見るだけ、見るだけ」。そう言い聞かせながらも、つい手に取った花柄のブラウスを試着してしまい、困ったことにタイムセールをしていたために、また買い物をしてしまいました。
「2千円だもの、主人も許してくれるわよ」。そうつぶやいて、帰り道のハンドルを握ります。家に着いたのは午後の2時です。夕食作りを始めるにもまだ早く、ミキはテレビをつけました。ワイドショーが賑やかに始まっており、政治や芸能のスキャンダルに夢中になっていると、あっという間に日が暮れました。
ふと、心がささやきます。(私の人生ってなんなのかしら。)(なんのために生まれてきたの。)しかし、「いえいえ十分幸せじゃない」と声に出し、冷蔵庫を開きました。
玄関のかぎを開ける音がして、2階への階段を駆け上がる音が続きます。高校生に上がった息子は、会話はおろかあいさつもしてくれません。(男の子なんてそんなものよ。)ミキは特に気にしていないつもりです。息子は勝手に部屋で食べますし、夫の帰りは遅いので、ミキは一人でテレビを見ながら晩ご飯を食べるのです。
外国の美しい街並みを旅する番組、大食い選手権、健康豆知識のクイズ番組・・・チャンネルをコロコロ変えながら、自分の心を満たしてくれるものを探します。目の前の夕食、そしてデザートワッフルを口に運んでいたら、気が付けば1袋5個入りのワッフルが全部なくなっておりました。
「おい、また太るぞ」。振り向くと、いつの間に夫が帰ってきており、ネクタイを緩めながら嫌そうにミキを見下ろしておりました。「おかえりなさい。今ご飯にしますね」。そう言って立ち上がろうとしましたが、「もう食べてきた」と言い放って、夫はバスルームに向かいました。その冷たい後ろ姿を見つめながら、(夫婦なんてそんなものよね)やれやれとミキは思いました。
ソファに横になるとテレビを消して、使い慣れないスマホを取り出し、先月からはまっているゲームのアプリを開きました。そのゲームは、自分の夢のおうちを作り上げていくというもので、ミキはほとんど完成した自分のおうちに見惚れました。あたたかな暖炉と赤いペルシャのカーペット、ロッキングチェアからは季節の花の咲き誇る自慢の庭が見えますし、広い庭にはパン工房や野菜の畑も作りました。2階の自分のお部屋は花柄の壁紙で、木製のベッドと机があります。息子の部屋も作りました。青空模様の壁紙に、トランポリンも置いてあり、廊下の突き当たりには主人の書斎だってあるのです。そこに暮らすミキたち一家は、手作りのパンや自家製の野菜の料理を食べたり、庭で息子が遊ぶのをミキと夫は腕を組んで見つめたり、そんな暮らしをするのです。
「そうね、犬もいるといいわ」。ミキはポチっと大きな黒い犬を加えました。犬=2P・・・「このPって何なのかしらね」。ミキは不思議そうに首をかしげました。気付けば真夜中の1時を回っておりました。「いけないいけない」。ミキは慌てて床に就きます。
翌日、ミキはスタジオで汗を流したあと、喫茶店で友人を待っておりました。ボブヘアーは半乾きですがいずれ自然に乾くでしょう。ミキは友人が入ってきたのを見つけて大きく手を振りました。
「私ナポリタンにするわ。あなたはどうする?」友人はミキよりも大きな体で狭そうに椅子に座るとメニューを広げました。「そうね、同じのにしようかしら」。そして一緒にナポリタンとケーキをつつきながら、夫の愚痴や子どもへの不満に花を咲かせて楽しみます。そして「どこも同じようなものよね」。「そうそう、幸せそうに見えていたって、中身はどこもおんなじよ」。そう言って慰め合うのです。実際にミキの周りには同じような不満だらけの友人が集まってくるのですから、その信念は強固になるばかり。そうやって胸を撫でおろしているのです。世の中には汗を流して働いたり、苦労をしている人もごまんといると聞いています。それに比べたら自分は恵まれているほうだ、そう思うことがミキの心を保っていました。
ピコッ♪と鮮やかにスマホが鳴りました。珍しいメールの着信です。ミキはおしゃべりを止めてスマホの画面をちらっと見ました。「今月の請求料金が確定しました」。画面をタップすると、血の気が引くのが分かりました。(5万5千円!?高すぎるわ?)ミキは画面を見て黒目を震わせました。違いました、そこには55万円を超えた金額が示されていたのです。いきなり胃が痛くなり、おなかが下ってゆくのが分かります。ミキはスマホを持ったままトイレに駆け込みました。
(どうして?)ミキはトイレに座り込んで、スマホを凝視しました。(何かの間違いよ。)ふと、自分がはまっていたおうち造りのゲームのことが頭をよぎりました。(まさか。)ゲームの画面を開き、説明文を震える指でスクロールしてゆきました。難しい文章の中に、1P=400円と書かれているのを見つけたとき、「幸せなほうの自分」が真っ逆さまに転落してゆくのが分かりました。
ミキは真夜中、ダイニングでノートを広げてお金の捻出ための計算をしておりました。額からは冷たい汗が流れます。ミキは毎月夫から渡されたお金の中でやりくりをしておりました。余ったものは息子の受験のためにと貯めていましたが、まだ足りません。何よりも恐ろしいことは、今朝まで例のゲームに夢中であったため、請求は今回では終わらないことでした。
(いったいぜんたいどうしたらいいの?)肩の力を落として、信じてもいないのに「神様」と口から漏れました。その時、テーブルの脇の窓に嫌な気配を感じました。目をやると、窓にぺったりと張り付いて、悪魔のような形相で笑う男が見えたのです。ミキは「ひぇっ」と声を上げて椅子ごとそっくり返りました。
気が付くと、ミキは不気味な牢屋におりました。むき出しの岩で出来た壁には、ところどころに血のような跡がありました。天井から恐ろしい声で歌が響いてくるのです。(♪幸せなほうだと浮かれきった日々は幕を下ろすだろう。夫に言ったらどうなるか。お前に愛想をつかすだろう。息子もあきれ返るだろう、だらしなく無様な人生は、今に始まったことではない。)
ミキはおどろおどろしい歌の主を探して見渡しました。(♪肥え太った体と同じく肥え太った人生よ。お前の無様でだらしないさまはお前の肉そのものだ。脂身が多く食べるところも見当たらず、せめて溶かして燃料にするほかはないだろう。)
「歌を止めて」。ミキは震えながら言いました。「そんなでたらめな歌はやめて」。すると耳元でささやきが響きます。(だったら夫に打ち明けてみるといい。)ミキは首を振りました。愛想をつかしたようにあきれ返る夫の顔が目に浮かぶようでした。ミキはいつかネットで見た記事を思い出しました。課金ゲームで借金を作る妻と離婚を考えているという相談の記事でした。ミキは思ったものでした。「世の中にはばかな奥さんがいるものね。そんな人と連れ添ったっていいことはないわ。離婚するべきね」と。その言葉がブーメランのように自分の体をえぐるのです。
ダイニングの床の上で目を覚ましました。長い夢を見ていた気がするのに、倒れてから1分もたっていないようでした。ぐったりと疲れ、ふと、「死んで償うほかない」と口をついて、ぞっとしました。この豊かな国において、「幸せなほう」だったはずの自分が、100万に満たないお金よりも軽い命であったことを突き付けられるようでした。自分で用意することもままならず、こんな失態をかばってくれる家族も友もおりません。「幸せなほう」だったはずなのに、気付けば頼れる人の一人もいない哀れで孤独な中年でしかなかったのです。
「おおっ」と身を屈めて嗚咽をする、自分の姿のみじめさに骨が震えるようでした。自分の命を中心に、暗闇が広がってゆくことが分かるようでした。その暗闇は、どこまでも深くそして何の「意味」も持っていない虚無というものにふさわしいものでした。その得体のしれない恐ろしい虚無にミキの命は吸い込まれてゆくことを感じていました。
(久しぶりだわ。)ミキは思いました。思春期の頃、よくこの「虚無」がミキの背後に忍び寄り、人生に意味などないこと、命に意味などないことを教えました。だからこそ、「少しでも気楽にやろう」そうやって生きてきたのです。やがてこの深い闇、「虚無」にのみ込まれて自我もその中に溶ける日まで、命の悲しい宿命を忘れるように楽しくやろうとしていたのです。
その時、高らかに吹くラッパのような声が聞こえるような気がしました。そのラッパは歌となり、ミキを照らすようでした。
(空の空、空の空、いっさいは空である。)(伝1:2)
(人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。)(伝2:23)
高らかな歌はまばゆい光となって、光は像を結びました。それはこの世のものとは思えぬほどに、気高く美しい光の糸で出来た天使さまの姿でした。ミキは目を丸くしておののいて、床に唇をつけました。すると天使さまは、手を伸べてミキを起こして果実のような麗しい唇からほとばしる雫のような声で言いました。
(私を拝してはなりません。婦人の方、あなたを助けてくださる方がいます。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(イザヤ53:4)と伝えられたお方を訪ねなさい。)
ミキは陶然として、「その方はどこにいるのですか?」と聞きました。天使さまはまっすぐにミキを見つめて、「心の光の指し示すほうに、その方は必ずいるのです」と言いました。ミキは心に光があふれることを感じていました。その光は一筋の道を照らす道しるべのように思えます。「はい、必ずたずねます」。ミキの心は喜びにあふれてつらつらと言っていました。天使さまは黒糖のような瞳でじっとミキを見つめると、その姿は朝の光に溶け入るように消えていったのです。
それは、まぼろしというには余りにも、確かすぎるものでした。今まで生きた人生のどんな景色よりも鮮明な天使さまの姿、そして言葉は、ミキの心に刻印のように刻まれました。
床にへたり込んだまま、ミキはカーテンのすき間から差し込む朝日を浴びていました。朝日はまるで天使さまのまなざしのような優しさで、ミキを包んでおりました。寝ぼけ眼の夫が起きてきて、「珍しいな、お前が早起きをするなんて」と皮肉交じりに言いました。
ミキは、「いつも寝坊してごめんなさい」と素直に謝ると、ほうけたまま朝ごはんの支度を始めました。ミキは心にあふれる光に導かれるように、なぜか正直に言えました。「すみません、お金を貸してほしいんです。私働いて返しますから、どうか許してほしいんです!」
夫はあきれ、怒りましたが、ミキが今日のうちにアルバイトの面接に行き明日からでも働き始める、とそれは真剣に言ったので、その言葉を信じて大事には至りませんでした。さっそくスマートフォンでアルバイトを探しました。得意なことなんて料理くらいでしたから、介護施設での調理の仕事を見つけるや否や、震える声で電話をかけて、「すぐにでも働きたい」と頼み込みました。
電話に出たのは優しい声色の青年で、ミキの事情の相談にまで乗ってくれました。面接は午後の2時の約束です。ミキは少しだけ休んでから面接に行く予定です。不思議といい予感しかしないのです。天使さまの光が、心に残っているせいでしょう。また、面接先も「ひかりの家」という名のケアホームです。きっと「光」が導いてくれる、そんな予感に胸をうずかせて、ミキの心は満たされました。
ダニエルは、雲の上からミキが自転車をこぐのを見つめていました。そしてその背を押すように、高らかに歌いました。
(天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。)(伝3:1)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。