山間にある小さな集落に、その古民家はありました。昔ながらのしっかりとした造りでしたが、それでも冬の近づいたこんな夜は、地面の底から寒さが伝わってくるのです。
ケンジは妻にガウンを着せ、自分も襟元を引き締めて身震いしました。台所では甘酒がぐつぐつといい具合に煮立っています。「お前も飲め」。そう言って小さなカップに注ぐと、2人ですすり、目を合わせてほほ笑み合いました。こんな瞬間に、ケンジは自分の選択は間違っていなかったのだと思えました。
ケンジは、定年間近であったにもかかわらず、今年の夏に会社を辞めて、この山間の小さな古民家を借りました。妻はそれまで2年にわたり、精神病院に入院して離れ離れで暮らしていました。そのさなかに妻の体にも、悪い病巣が見つかったのです。それはあまりにも悪いもので、もう治療の方針も立てられないほどでした。ケンジは妻を退院させて2人きりで、長くもないと言われる妻との残りの時間を過ごそうと、この古民家に移り住んだのです。
ケンジは決していい夫だったとは言えませんでした。若いときは気性も荒く、好きなお酒の力も相まって、妻をたたきののしったことも1度や2度ではありません。コータという一人息子のことも、どれほど傷つけてしまったか、ケンジには想像もできないほどでした。妻が心を病んでしまったのも、長いこと自分が苦しめたからだ、と自分のことを責めました。
街の暮らしに慣れたケンジには、山間での暮らしは楽なものではありませんでした。何よりも、寒さと暑さと虫の多さがケンジの気を滅入らせました。それでも、日々咲き誇るいろいろな野花や、刻々と変わる神秘的な空の色の移り変わりは今までに体験することのなかった喜びを与えてくれました。ケンジは庭に小さな畑も始めました。小さなジャガイモが初めて採れた秋の日には、孫を抱くようにジャガイモをいとおしく思ったものでした。妻は野花を摘んで家じゅうに飾り、よく歌っていました。
「奥さんは暴れることもあるからね、普通の人が看るのは大変ですよ」。妻を自分で看ることは、精神病棟のお医者さんに止められましたが、久しぶりに共に暮らした妻は、5歳児の子どものような愛くるしさと想像力でケンジを驚かせ、また楽しませてくれました。
枕を並べて眠り、妻の柔らかい頬を撫ぜ、ほほ笑み合って眠りました。外ではごうごうと風がうなり、雨戸を叩いておりました。妻はつぶらな瞳をぱちりと開いて起き上がり、「神様が私たちに会いに来た」と雨戸を開け放つのです。風が部屋中に吹き抜けて、本はめくれ壁掛け時計は大きく揺れます。妻は両手を大きく広げ、風を抱きしめるようにその手を包み、‘神様’と抱き合って、うれしそうにほほ笑むのです。「分かったから、早く床につけ」と妻をたしなめてもう一度床につくのですが、「おとーさん。お歌うたって」。そんなふうに甘えられ、下手な歌を絞り出しながら、ようやく妻を大切にできたような喜びを感じているのです。
台風が近づくと、庭の野花の妻のかわいがっている花たちを掘り起こして鉢に移し、家の中にかくまいます。鉢植えの野花たちと身を寄せ合って、妻は暴風に怯えました。大雨に打ち叩かれている木々や森の花たち、行き場のない鳥や動物たちのことを想って、妻は一晩中祈っておりました。そんな妻は、まるでこの星の悲しみを一身に背負った祈り手のように思えました。いつの間にか、本当に妻の祈りに、この星の命運がかかっているような気さえして、ケンジは妻の祈りを見守る番人のような、神秘的な役まわりを演じたのです。
おととし、一人息子のコータの結婚式がありました。コータはキリスト教を信じており、教会の牧師先生が結婚式を執り行ってくれました。その時のお話を、ケンジはよく思い出しました。
「創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。(マルコ10:6~)」
ケンジは、妻を手下か召使のように長らく扱ってきてしまいました。従順には程遠くなってゆく妻を、まるで自分の敵のように不信感を持ち、憎しみに身を焼いたことさえありました。しかし、この山間の暮らしでは、ケンジはようやく人並みに妻を大切にできている気がします。それはとても不思議なことでした。正常でなくなってしまった妻だからこそ、自分の本当にしてあげたかったことをできたのかもしれません。
教会なんて、コータの結婚式の時にお世話になったくらいで、その時に頂いた聖書も本棚の隅で眠っていました。それでも、忘れられない言葉もありました。始まりの人、アダムはその妻イブを「これこそ、ついにわたしの骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名付けよう。男からとられたのだから」(創2:23)と言ったといいます。ケンジはそのセリフも覚えていました。
たった一人の自分に、たった一人の女性が与えられ、その命が自分に委ねられていることはあまりに重く、尊いことで、ケンジはずっと気付かなかったその重みを初めてかみしめ、後悔し、また喜びました。
「あなたって何でも知っているのね。不思議ね」。妻はそう言って宙を仰いで誰かと話し込んでいます。それは長いこと話し込むので、ケンジはついにいら立って「いい加減にしてくれよ」と根を上げます。それでも、ふいっと妻はケンジのもとに戻ってきて「ねえ、神様がいるなら、それはキリストの神様よ」。突然そんなことを言い出すのです。
妻は入院中でしたが、特別に許可をもらってコータの結婚式に出席しました。キリスト教のお話や、聖歌にいたく感激したようで、それからよく覚えたての聖歌を歌いました。それは心地よさそうにのびのびと歌っていました。
「♪聖なるかな、全能の神、我ら朝まだき 褒めまつる。三つにまして、一人の神、愛に充つる、強き主を♪」
「そんな聖い神様は、俺らに罰をあてるようで、なんだか怖いな」。ケンジがつぶやくと、妻はおかっぱ頭を揺らしながら首を振って、「ちっとも。…私たち、愛されているのよ」。そう言って黒糖のようにつぶらな目を光らせました。台所の明かりに照らされた妻の顔は、ずいぶん痩せたことに気付かせましたが、それはまるで少しずつこの世の荷物を下ろしているようでもありました。
妻は徐々に食が細くなり、おう吐することも珍しくなくなりました。ふっくらしていたはずの体も木々がやせ細るように、みるみる枯れていったのです。ケンジは妻の顔を見つめました。しわの多くなった顔は、歯が浮き出るほどに痩せました。ケンジは妻に膝枕をしながら重湯を飲ませようとしました。妻は目を輝かせて愛おしそうに夫を見つめると、首を振り、重湯を飲もうとしませんでした。
ケンジは妻の名を呼びました。すると妻は「すべてを置いてついてくるように、彼が言っているの。もう行かなくちゃ」と吐息で伝えるのです。「『彼』って誰だ?」ケンジは聞きました。妻は震えながら人差し指を掲げると、十字架を描きました。
そして静かな明け方に、妻は息を引き取ったのです。ケンジはずいぶん小さくなった妻を長いこと抱きしめておりました。すると不思議です。黄金色のベールがケンジの体を包みました。そのベールは、この世のすべての花たちの繊維で編まれているような、すべての音階の音で出来ているような、えもいわれぬ神秘的な肌触りであったのです。あたりを見渡したとき、雨戸のすき間から差し込む朝陽が、それは大きな天使さまのみ翼を浮き上がらせました。ケンジはそのみ翼の中にいることに気付きました。天使さまの高らかなソプラノは歌いました。
「なにを悲しんでいるのですか。『まことに主はこの場所におられる。わたしはそれを知らなかった』(創28:16)。そのように神様に告白をした人がおります。あなたもきっとそのように言うときが来るでしょう」
ケンジは陶然として、天使さまのみ翼に妻の霊が抱かれ、み翼の陰に隠されたことを見つめました。そして天使さまは朝の光に溶かされるように姿を消してしまいました。部屋に差し込む光は黄金色に輝いて、歌となって耳の奥に届きました。
ケンジは涙を流しながら、その歌を聞いていました。その時、妻は自分がまるで光のようなからだをしていることに気付きました。あたりには光のからだを持ったみ使いたちが妻を囲み、いとおしそうに見つめており、「さあ、お連れしましょう、主のもとへ」。そう言ってくださるのを聞きました。妻は喜びにあふれ、み使いたちに告白をしました。「私は死ぬことが怖くなかったと言ったらうそになります。しかし、私が生から死へと移るときも『主は彼をその病の床でささえられる』(詩41:3)という言葉の通りに、私を支え、守ってくださり、死を越える力を与えてくださっていたのです」。み使いは、いとおしそうに妻を見つめて言いました。「人は目に見えるものはわずかだと知りながらも、目に見えるものにとらわれる、あまりにもか弱く慈しむべきものです」
ケンジはそれから半年後、まだこの山間の集落に暮らしておりました。妻とのわずかな美しい思い出の残るこの古民家を買い上げる決意をして、手続きに忙しくしておりました。仕事の少ない場所でありながらも、一人で生きてゆくには十分な仕事も与えられました。大雨の予報が出ると、妻がそうしてほしいとぐずったように、妻の好きな花たちを鉢に移して家の中に避難させます。鉢植えの花たちと身を寄せ合うように大雨の夜をしのぐとき、そばに妻の霊を感じます。
妻を亡くした明け方の神秘的な幻を忘れることはありませんでした。この世界には、目に見えるものよりも深く偉大な御力があり、耳に聞こえる言葉よりも聞かなければいけない声がある、そんな希望をケンジも持つに至りました。
山間の集落には、小さな教会がありました。教会というには普通の民家に十字架を立てただけのような簡素なものでしたが、街の立派な教会よりもケンジにとってはずいぶん入りやすく思いました。日曜日になるとケンジはそこに出向きます。妻の見ていた神様がいったい何であったのか、知りたい気持ちが聖書を開かせ、祈りを覚えさせました。
ある日、聖書を開いていると、創世記の28章が目に留まりました。「まことに主はこの場所におられる。わたしはそれを知らなかった」。ケンジは瞳を震わせました。それは確かにあの明け方に聞いた、み使いの言葉であったのですから。
ケンジはおいおいと泣きました。手を組んでひざまずき、神様ご自身が自分を迎えに来てくださったことに、おののきました。どんな深き闇の淵にも差し伸べられる、神の愛の御手を感じていたのです。「まことに主はこの場所におられる。わたしはそれを知らなかった」。ケンジはそう告白しました。
ダニエルは今日もこの世界をはるか高き所から見つめ、失われた子羊たちを見つめております。この世界には神様に忘れられた人など一人もおりません。「主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる」(詩33:15)という言葉の通りに、すべての人を切なる思いでお見つめになり、愛し、待ち焦がれているのですから。
ダニエルは黒糖色の瞳を潤ませて、世界を見つめておりました。それはまるで神様の悲しみ、慈しみが映っているかのようでした。世界は今日もあわただしく、時計の針はチクタクと人々を忙しく動かします。今日も早足で歩く人たちは、本当に行かねばならない所のことなど考えもしていません。空はまるで語るようです。神様の痛切な叫びを…。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)
それは痛切に、神様がお語りになるようではありませんか。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。