女はキッチンでささやかな夕食を作っているところでした。病院から戻ってくると、女が大切に育てていたベランダのハーブも枯れていたため、新しく買った苗をキッチンの窓辺に並べておりました(これまでのお話はこちら)。ミントをちぎってカップに入れてお湯を注ぎ、ミントの香りを楽しみながら飲みました。月桂樹を枝ごと買って大きなカレー鍋に入れて煮込みます。もう家族はいないというのに、まだたくさん作る癖は抜けません。女は独身を貫いてきましたが、長く両親の世話をしてきました。父と母の世話をし、看取った後、女は自分の心にぽっかりと出来ていた空洞に気付いたのです。それから、“存在していることの意味”が分からなくなり、頻繁に発作を繰り返し、入院も今回が4度目でした。
「今日も作りすぎちゃったわ。どうしましょう。でもカレーだから、冷凍しておけばいいか」。そう一人でささやいて、椅子に腰かけてミントティーを飲みながら、鍋がぐつぐついうのを見つめていました。
病院での暮らしは半年間と長かったため、まだ自分らしい日常は戻ってきません。退院直後の薬は強いもので、ほとんど一日ぼんやりとしてしまいます。女はカーテンの隙間から見える街灯の明かりを満月の明かりだと思いました。街灯だとすぐに気付きましたが「満月みたいで素敵ね」と独り言を言いました。心にぽっかりと空いた空洞は、懐かしいお友達との長電話や、愉快なテレビ番組も埋められない、深い深いものでした。
「どうして生きているの?」そんな言葉は口に出すのもはばかられます。きっとどこかにいる神様に、怒られそうな気がするのです。
ふと、鮮やかにチャイムが鳴りました。こんな時間に訪ねてくるのは、宅急便のおじさんくらいでしょうが、何かを頼んだ覚えもありません。女は不思議に思いながらも廊下を伝い、ドアを開きました。
「はあい」。そして目を丸めました。「あなたたち、どうしたの?」そこにはずぶ濡れの子猫たちが押し寄せるように、少年と少女が立っていたのですから。
「少しの間でいいから、ここに置いてほしいんだ」。少年はぎらぎらと睨むような眼で訴えました。そのまなざしがあまりに哀れだったので、女は「ちょうどカレーを作ったところなの。一緒に食べましょう」そうほほ笑んでおりました。
(本当に野良猫を拾ったみたいだわ。)女はドライヤーで2人の髪を乾かしてやり、カレーを一心不乱に食べている2人を見つめました。それもそのはずでした。2人はこんなに手を込んで作られた食事は久しぶりに食べたというのです。話を聞くと、あまり子どもに手をかけられない家庭で暮らしてきたよう。
「それでも、ご両親に連絡しないわけにいかないのよ。だって、捜索願を出されてしまうかもしれないでしょう。そうしたら私が誘拐犯になっちゃうのよ」。そう言うと、少年と少女は顔を見合わせ、母親の電話番号を教えてくれました。
女は2人の親に礼儀正しくあいさつをし、「落ち着くまで今少し、泊めてあげてもよろしいですか?」と聞きました。返ってきた返事は「どうぞご自由に」とか「私に恥をかかせることさえしなければ何でもいい」とか、驚くような言葉でした。同時に、その声の若さに驚きました。それもそのはず、少年と少女の親とはいえ、女の娘でもおかしくない年頃なのですから。
女は少年と少女がほほ笑みあってカレーを食べている様子を見つめ、「ずっと守ってあげたい」そんな気持ちが湧き上がることを感じていました。温かいお風呂に入れてやり、よく眠れるようにミルクティーを飲ませました。そしてリビングに布団を敷いて、少年と少女を寝かせ、自分はそれを見守るようにソファに横になり毛布を引き寄せました。
真夜中、女の夢に不穏な影が忍び寄りました。女は影から逃げるように目を覚まして身を起こしました。窓から漏れる街灯の明かりに照らされて、少年と少女が眠っており、昨日の出来事が思い返されました。うん、うん、と少年は時折うなり声を上げています。額から脂汗を流し、何かと闘っているようでした。女は背筋に氷よりも冷たいものを感じました。振り向くと、真っ黒な悪霊が油のようなよだれを垂らし、女の肩から腕にかけて撫ぜていたのです。女は息をのみました。すると悪霊デミオンは「なあに、仲間じゃないか」そう親密にささやくのです。
少年のハートから声が響いておりました。「俺は生まれてこなければよかったんだ」。「ただの邪魔者」…その言葉は少年の叫びのようで、しかしよく耳を凝らすとその言葉はデミオンの声そのものでした。その言葉は少年の心を貫き、傷つけ、少年は「助けて」と身もだえしていたのです。
「でたらめを言うのはやめなさい」。女は震えながらデミオンに言いました。デミオンはにこりと笑うと、「私はなぜ生きている?」「子どもをかばって母親にでもなったつもり?」「役立たずの病人が」…そうつぶやきました。そのつぶやきは女のハートから、まるで女の言葉として発されてゆくのです。「やめて」。女は胸を押さえました。
「生まれてきてはいけなかった」。少年と女は同時につぶやき、瞳の上で涙が波紋を起こしました。
デミオンは高笑いをして壁の影に姿を消していきました。傷ついた人間の心は特にもろくて操るのも簡単ですから、面白くて仕方ありません。デミオンのささやきは、生まれてきたことを呪わせ、自分と他人を疑わせ、目に見えるものにしがみつき、神様など決して見ないものへと誘惑してゆくのです。
街灯の明かりが虹色に光り輝きながら、窓辺から差し込んでおりました。それはいろいろな色をしていて、一つも同じ色がないような美しいきらめきでした。女はその光を求めるように、這(は)って少年のそばに行きました。そして眉間にしわを寄せて「生きてちゃいけない」そうつぶやく少年を抱きしめました。2人を守る親猫のような女を、色の光が温かく包んでくれているようでした。「なぜですか?」女は息も絶え絶えに聞きました。「なぜですか? この世は…人に与えられた人生とは何なんですか?」虹色の光のその先に、女は問うておりました。光は、まるでまなざしのような温かさで語っているようでした。街灯の光が夜に滲んで、真白い十字を刻んでおります。
(闇は消え去り、まことの光はすでに輝いているのです。その光に気付きなさい。)光自体がそう語るのを聞きました。「まことの光?」女は十字を刻む街灯を見つめました。(すべてを新しくされた方は来られました。新しくお生まれなさい。神の霊を受け、神の名のもとに生きなさい。)十字の光の下に、数えきれないほどのみ使いたちの霊がひざまずいているのが見えるのです。
目に見えない偉大なる方のほほ笑みが、夜空にあふれているようでした。そのほほ笑みに抱かれているような気持ちの中で、女は2人を守って眠りました。
翌日、女は2人のために、朝食を作っていました。少しでも愛情を込めた料理を食べさせてやりたい。そんな気持ちで苦手な朝でも頑張って台所に立っていました。昨夜の不思議な幻が心に残っておりました。
「おはよう」。昨夜のことなど何も知らぬ元気な様子で、少年と少女は同時に起きてきました。「いいにおい」。そう言ってうれしそう。「今朝はポトフよ。パンも焼いたの」
それからしばらく、少年と少女は女の家で暮らしました。こんな暮らしがずっと続けばいい。そう思うほどに温かく平和な毎日でした。しかし1週間もたたない朝に、少年と少女は消えていました。置き手紙には「これ以上お世話になるわけにはいかない」とか感謝の言葉が書かれていました。
少年と少女は朝の光の中でスキップをして歩いていました。「お金はどうする?」「何でもして働くさ」。2人はとてもうれしそう。2人の胸にはむくむくと望みが生まれておりました。「誰よりも愉快な人生を生きてやる」そんな望みでした。それが唯一の、苦しみの世界に生まれてきたことへの復襲のように思えていたのです。
神様は2人の歩く道にひなげしの花をいくつも咲かせてくれました。まるで手を差し伸べているように。しかし2人はそんなことには気付かずに、ひなげしの花を踏みつぶして、ステップを踏んで歩きました。2人はとても愉快でした。
それでも神様は、(あなたがたは私のところに戻ってくる。それはあなたがたの形づくられるもっと前から、さだめられていることだから。)そう寂しそうにほほ笑みながら、ひなげしの花を咲かせられるのをやめませんでした。
伸びる2人の影の中で、デミオンはほくそ笑んでおりました。
空にゆっくりと朝日が滲み、虹色の光が地平線に広がります。羊雲が光を映してピンク色に輝きながら、ゆっくり空を流れてゆきます。あまりに美しいこの空をいったいどのようなかたがおつくりになったのか、考えたことがありますか? いったいどれほどの人が、この奇跡的な一瞬に目を留めていることでしょう。そう、神様がおられ、神様がおつくりになったからこそ、この世界や一つ一つのいのちの瞬間は、千輪の花でも表せないほどの美しさをもって、今も奏でられているのです。
あなたがもし苦しみの中にあり、そのように思えなかったとしても、いのちとはそれほどの奇跡的な輝きで今もきらめいているのです。
この世界の始まりの時、それは美しく神に愛されていた天使が、闇に堕ちたといわれます。己の美しさに高ぶりを覚えた天使は「私こそが神だ」と名乗りはじめ、神様とは相対するものとなったといわれます。それが、今この世界を治めている悪魔の始まりだったのだと…。
神様は愛、そして光です。光は、愛や善、優しさや赦(ゆる)しとして、この朝焼けのように、世界を彩って輝きます。そしてこの世界を治めることを許された悪魔が、光の中に闇を忍ばせ、その闇は、人の心を甘くとらえ、心の中へも滲み続けているのです。本来神様に似せて作られた人間を、自分にこそ似たものへと甘い誘惑で誘います。
神様はなぜ、闇をおゆるしになるのでしょうか。なぜ、天使の堕落を、そして私たちが誘惑に晒されることをおゆるしになられるのでしょうか…。そこには神様のまったき愛が、表れている気がいたしませんか? 神様は私たちに、選択をおゆるしになります。さだめを自分で決めることを、神様はおゆるしになるのです。私たちが神様の愛する子どもであるからこそ、命のさだめを自分自身で決めることをお認めになるのです。
しかし、同時に神様は、私たちが神様のもとへと戻る道をこの世界にきらめかせ続けてくださっておりました。野花が季節ごとに色を変えて、道端に咲き続けるように、神様の招きの御手は絶えることはなかったのです。
そんな、闇と光のコントラストの奏でられる世界のなかで、私たちの人生は風のように揺れ動き、万華鏡のように展開します。この物語は、光と闇のはざまにもがく、「からし種」たちのものがたり。「からし種」それは吐息で吹き飛ぶほどに小さく軽い種ですが、育てばそれは大きく育つというのです。「からし種」それは光と闇のこの世界で、神様を求めるささやかな、しかし強い心のことです…。
さて、3人は、その後どのような道のりを選んだでしょうか。女は、心の空洞を埋められるのはこの世のものではないことに気付き始めておりました。少年と少女はそれぞれに、乾いた心が癒やされることを望んでいました。
ある朝3人のもとに、それぞれに聖霊の風が遣わされました。まるで神様の迎えであるように、その風は金の光をまとうて朝の空気を満たしたのです。それはまるで、この世のものではなく、3人の心はそれぞれに心底満たされ、あふれました。
この世界の不思議はいつも、神様を想わせます。「どこかにきっと、すべて見ておられる神様がおられるのだからね」。そう言った女の言葉を少女は思い出しておりました。
「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」(詩81:10)。まるで神様がそうおっしゃってくださっているかのようで、3人は不思議とこぼれる涙に驚きました。いずれ岩から出た蜜によって、3人は本当に飽き足りることを知るでしょう。神様の治めるこの世界は、“求めるならば必ず与えられる”そんな優しいお約束のある世界なのですから。
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。2018年4月1日イースターに、加須市の東埼玉バプテスト教会において、木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。結婚を機に、我孫子バプテスト教会に転籍し、夫と猫と3人で暮らしながら教会生活にいそしむ。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。