1. 最高裁上告事件
「当裁判所で審理することになりますのでお知らせします」
こんなシンプルな通知が最高裁判所から届いた。だが、この通知には非常に重要な意味がある。ある民事事件の裁判で、一審(東京地裁)、二審(東京高裁)ともに完全敗訴だった。最高裁に上告したが、とうてい勝ち目はない。なぜなら、最高裁に上告してもほとんどが門前払いで、審理もしてもらえない。統計によると、なんと、上告事件が裁判所で審理される(判決が出る)確率は1・5%しかない。だが、審理さえしてもらえれば、75%は勝訴できるのである。
常識的にはまったく勝ち目はないと思ったが、神の奇跡の勝利を信じ、祈って上告した。そうしたら審理する旨の通知が来て、俄然、逆転勝訴の見込みが出てきたのだ。「信じられません!」と依頼人は驚喜した。彼にとってはこの裁判で勝つか負けるかは、その後の人生において天国と地獄ほどの差が出てくるからだ。また、最高裁の判決は社会に大きな影響を与える力があるからだ。
裁判で一審、二審と連続して敗訴すると、失望してしまい戦う意欲が薄れてくる。最高裁に上告するには費用もかかるし、勝訴の見込みはほとんどないとなると、諦めるのが普通である。しかし、神を信じていると、一審でなぜ負けたのか、また二審でもなぜ負けたのか、その都度その理由を謙虚に反省して、最後まで諦めないで挑戦する勇気が湧いてくる。
2. 思い通りに行かなくて当たり前
「東京オリンピック・パラリンピックを一年延期する」。2020年3月24日、安倍首相とバッハIOC会長との間の電話会談でこう合意された。コロナウイルスによって長年準備してきたオリンピックが延期されてしまうことなど、一体誰が想定しただろうか。
自分の過去を振り返ってみても、物事は思い通りに行かない方がはるかに多い。また、誰もが紆余曲折の人生を歩んでいるではないか。人の能力や知識や経験には限りがあるからである。物事が思い通りに行かないからといって、がっかりしたり、他の人を非難したりしていると、ますます精神的に落ち込んでしまう。でも、謙虚に考えてみれば、物事がすべて自分の思い通りに行くと思うことは高慢でないか。人間はすべて全能の父なる神の恵みの中で生かされている存在である。神のみこころに従わず自分勝手に計画を立ててもうまく行くはずがない。初めはうまく行っても、やがては破綻してしまう。
だから、思い通りに行かなくて当たり前なのである。「物事は思い通りに行かないのが当たり前なのだ」と思うと気が楽になる。状況や人のせいにしなくなる。「また、うまく行かなかった。どうしたらうまく行くのだろうか」と前向きに考えることができる。その都度、悔い改めて、神のみこころに立ち帰り、神の導きに従いながら生きるのである。そうすれば、神の計画がその人のために実現していく。私たちに対する神の計画は、平安と将来と希望を与えようとするものである(エレミヤ29:11)。
あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。(箴言27:1)
よく聞きなさい。「きょうかあす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をしてもうけよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。(ヤコブ4:13、14)
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