1. メンターはこの人だ!
「その節はいろいろお世話になりました。刑務所では、聖書と信仰書を読み、悔い改めては祈る毎日でした。ボクの心の深いところがいかに不純であったかがよく分かりました。一から出直して頑張ります」
3年ぶりに出所したクリスチャンの青年と再会した。見違えるほど明るく爽やかな人になっていた。新しく出直して、きっと大成功すると思う。
高校生の時に洗礼を受けた彼は、「事業家になって成功し、財政面で教会を支えたい」と思い、大学卒業後一人で会社を設立して起業した。でも、幾つかの事業に関わったが、すべてうまくいかなかった。
「ボクはどうして失敗ばかりしたのかとずいぶん悩みました」。「自己啓発系の経営セミナーに参加して学び、そこで、ボクには自分の模範になるようなメンター(良き指導者)が必要なんだと思いました」。「そして、『ボクにふさわしいメンターと出会えますように』と真剣に祈りました」
「ある起業家グループの会合で、誠実そうな感じで恰幅が良く話もうまい人物と出会い、なぜか『ボクが求めていたメンターはこの人だ!』と思い込んでしまったのです」。「その場で『キミ、私と一緒に事業をしないか』と持ち掛けられて、その人物を社長とする会社で部下として働くことになりました」
彼は拘置所の接見室で私にこう語った。
2. 人に騙される
彼は社長に命じられるままに、一生懸命に投資案件の企画書を作成した。
「私の会社はもっと大きな案件を手掛けているため、この案件はキミの会社の名前でやってくれ。すべての責任は私個人と私の会社が引き受けるから」と言われて、疑うことなく従った。
彼の企画書を読んで賛同した何人かの投資家が、彼の会社の口座に資金を振り込んだ。彼はその都度、資金を引き出して全額現金で社長に手渡した。ところが、もともとその投資企画は架空の事業であったため、被害を受けた投資家たちから告訴され、彼は詐欺罪で起訴された。
社長も逮捕されたが、「俺は何も知らない。お金なんか1円も受け取っていない。すべてあいつが自分で勝手にやったことだ。それなのにこんな目に遭わせやがって、とんでもないやつだ。俺こそ被害者だ!」と、すべての責任を彼に擦り付けた。実は、この社長は詐欺の常習犯であり、当然、有罪になった。
3. 人を騙したことになるのか?
「あなたは投資家を故意に騙したのですか?」と、私は接見中に何度も尋ねた。「いや、ボクは人を騙してお金を取るようなつもりはありませんでした」と繰り返し答えたので、裁判では無罪を主張した。
しかし、公判の最後で裁判官と彼との間で次のような問答があり、判決では有罪と認定された。
「あなたは社長の命令に従ったにしても、もしかしたら『これは人を騙すことになるのではないか』と思っていたのではないですか?」「ちょっと気になりましたが、全面的に信頼していた社長から『まったく問題ない』と言われて、社会の常識ではそんなものなのかと思ってしまいました」
「でも、あなた自身は『これは詐欺になるのではないか』と内心では疑っていたのですよね!」「はい、確かに、私自身はそう思いました。でも、社会常識では許されるのではないかと・・・」
法律的には有罪か無罪か非常に微妙であったが、彼は祈った末に控訴を断念した。人に騙されて被害者になったとしても、人を騙して加害者にならないためには、よく祈って主に自分の心の深みを探っていただかなければならないと思う。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る。(1サムエル16:7)
なぜ、むしろだまされていないのか・・・だまし取り・・・盗む者は・・・神の国をつぐことはないのである。(1コリント6:7~10)
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