「律法と福音」というのは、以前にいったん終了させていただいたシリーズですが、最近今回の内容を教会で語る機会があり、皆様にもシェアさせていただければと思い、シリーズを復活させて書かせていただきました。神様は無条件に私たちの罪を赦(ゆる)してくださるお方ですが、その赦しを受ける私たちの、心の姿勢について、共に御言葉から教えられていきたいと思います。
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。(ルカ7:36〜39)
イエス様を家に招いたパリサイ人というのは、当時神の前に正しい生活をしていた人々でした。そこにひとりの罪深い女性が来て、イエス様に対して自分のできる精いっぱいのことをしました。ところがそれを見た律法学者は心の中で、この女性とその女性の行動を受け入れているイエス様を非難したのです。それを見抜かれたイエス様が語ったのが次の箇所です。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。(ルカ7:40〜43)
2人の人がそれぞれ、50デナリ、500デナリの借金をしていたといいます。それはどれほどの額なのでしょうか。1デナリとは、1日の労働賃金ですので、1万円くらいを考えられたらよいと思います。つまり一人の人は、50万円の借金、もう一人の人は500万円の借金をしていたということです。2人とも借金をするくらいですから、まずしかったのでしょう。彼らはお金を返すあてがありませんでした。そこへお金にきびしいはずの金貸しが驚くべき恵みを与えてくれました。ちょっとあり得ない話ですが、2人とも無条件に借金を棒引きにしてもらったのです。
そして、イエス様がこの話をしながらこの律法学者に聞いたことは、2人のうちどちらがより、その金貸しを愛するようになるのかという質問でした。変な質問ですが、二択ならば答えは明白で、多く赦してもらった者でしょう。この話を通してイエス様が言われたかったことは何でしょうか。
聖書では借金とは罪を意味しており、借金を赦してもらった人というのは私たちのことです。そして、この恵みふかい金貸しとは、無条件に私たちの罪を赦してくださる神様のことです。そして、多くの罪を赦してもらった者ほど神様をより愛するようになるということをイエス様は、たとえを用いて教えられたのです。このたとえ通り、この不道徳な女性は自分の大きな罪を知っていたので、イエス様に対して自分のできる最大限の愛の表現をしたのです。この原理に関しては使徒パウロもこのように説明しています。
罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)
日本でも元ヤクザだった牧師先生方が神様の深い恵みに触れ、熱心に神様の働きをされています。誰かにあらためて言われるまでもなく悪いことをしてきたという自覚があり、そのすべてが神様の恵みによって赦されたということに、人一倍感謝されるのだと思います。
それでは皆さんはどちらのタイプでしょうか? 多く赦された者でしょうか? それともそれなりに真面目に生きてきたので、それほど多くの罪は犯してこなかったタイプでしょうか?
ある人は、自分は真面目に生きてきてしまったから、むしろ今からでも罪を犯したら神様の恵みがより良く分かるかもしれないと思うかもしれません。もしくは自分も悪い人生を送って後に、イエス様に出会っていたら良かったのにと思うかもしれません。実際に僕は、牧師の家庭に育ち、小さい頃からそれなりに真面目に生きてきてしまったので、自由奔放に悪いこともしてから、死ぬ直前にイエス様を信じて天国に行ければ、それがベストじゃないかなと思っていたことがありました。しかし、それに対して使徒パウロはこのように断言しています。
それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません(ローマ6:1、2)
では、多くの罪を犯さずに生きてきた人は神様の恵みを少ししか体験できず、神を少ししか愛せないのでしょうか? もちろんそれも違います。今日のイエス様の言葉はこう理解されるべきなのです。
誰であれ、多く赦されたことを悟る者は、多く主を愛するようになる。そして、少ししか赦されていないと思う者は、少ししか愛さなくなる。
すなわち、自分の罪の大きさを悟れば悟るほど、主をより深く愛するようになるということです。いかに私たちが真面目に生きてきて、人間の法律にはひっかからないとしても、私たちの心の中には、自己中心、貪欲、偽り、欺き、嫉妬、怒り、恨みが満ちています。それが行動に出てしまうと、警察のお世話になりますが、心の中に留めて自制を働かせられる場合には、罪に問われません。しかし神様は心の中を見られるので、行動に出そうと出さまいと、本質的に罪の質や重さに変わりがないことを知っておられます。
三浦綾子さんの代表作の中に氷点という作品があります。この物語は、継母にいじめられる非常につらい状況の中にあっても、悪い想いを抱かず、健気に頑張って生きてきた、とても良い子である主人公が、最後の最後に自分の内にある原罪(氷点)に気付くというところで終わります。他の人と比較して罪が多いか少ないかではありません。聖なる神の御前にどうかということです。偉大なダビデ王はこのように告白しています。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(詩篇51:3、4)
私たちが赤ちゃんの頃には、自分は一人では何もできないので、親がそばにいないと大声で泣きます。しかし大人になり、自分の仕事も持つようになると、自分ひとりで生きていけるようになるので、子どもの頃よりは親から独立するようになります。そして自分の家庭を持つようになると、年に1度もしくは10年も親に会わないということもあり得ます。
自分には罪があっても50デナリくらいの負債だろうと思っている人は、神の恵みに感謝しても、深くは感謝しません。自分でもその気になれば返せる額だと思うからです。そういう人は、まるで成人した人が親に接するように、礼儀的に時に義務的に神様に会いにくるのです。自分も忙しいけれど、親にも礼儀上あいさつをしなければという感じになるのです。
しかし自分の本質的な罪深さを知り、自分に決定的な不足があることを悟った人は、親に泣いて離れない赤ちゃんのように、神の恵みが無ければ生きられないことを知っているので、ひたすら神にしがみつき神を愛するのです。実は私たちの罪は、50デナリ(万円)や500デナリ(万円)ほどではないのです。他の聖書箇所ではイエス様はこう表現しています。
清算がはじまると、・・・一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。・・・しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。(マタイ18:24、27)
私たちの罪は1万タラントと言われるほど、深刻なものです。1タラントが6千デナリ(6千万円)ですから、1万タラントとは、6千万デナリすなわち6千億円相当を意味します。つまり一生働いても自分の力では到底返せない額なのです。それを詩篇の記者はこのように表現しています。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。——たましいの贖(あがな)いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない——(詩篇49:7、8)
このイエスを招いたシモンというパリサイ人は、それなりにまじめに生きてきた人でした。彼は神を信じていたし、愛してもいました。しかし、彼は自分の本質的な罪深さに気付けなかったので、他の人を裁いてしまい、目の前に自分の魂の贖い主であるイエス・キリストがいたのにもかかわらず、それに気付くこともできませんでした。
私たちには、1万タラントの負債のような、自分の正しさによってはとうてい解決することのできない本質的な罪があるのです。しかし、神様は私たちを愛してくださっている故に、イエス・キリストをこの地に遣わしてくださり、キリストもまたその愛の故に、十字架上でご自身の貴く高価な血を流し、私たちではどうすることもできない、莫大(ばくだい)な罪の値を、ご自身の命という高価な代価によって支払ってくださいました。
先ほどの女性は、自分の罪深さを知っていただけでなく、イエスが私たちの罪のためにご自身の命を犠牲にされることをも悟ったからこそ、「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」のです。私たちも、この女性のように、自分の罪の大きさと神の深い愛を悟り、神様に感謝する者となりましょう。そして神様をよけいに愛する者となりましょう。
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