あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)
今日はこれまでの内容を総まとめしながら、一番大切なことを書きます。それは「新しい戒め」に関することです。新しい戒めとは何かということを理解するために、「古い戒め」に関することから思い起こしていきたいと思います。
戒め
以前、律法(古い戒め)とは「したくない~を、しなさい」「したい~を、してはならない」というものだと説明しました。例えば、「勉強しなさい」という言葉は、勉強嫌いの子にとっては戒めですが、勉強が大好きな子にとっては、「戒め」としての性格を帯びません。
律法
世の中の戒めは人が自分たちの中で合意して、「門限は6時」「制限速度は40キロ」などと決めるものですが、神の戒めである律法は、突き詰めていくと「愛しなさい」という一言に要約されるとも書かせていただきました。そして愛するときには「心を尽くして」「自分自身のように」「敵をも」愛さなければならないというのが聖書の基準であり、神様の言葉です。また、神様の言葉である律法は当然のこと聖であり、正しく、良いものです(ローマ7:12)。
罪
私たち人類は「原罪」を持ち、堕落した存在だとしても、神様の最高傑作として神様のかたちに似せて造られましたので(創世記1:26)、「愛しなさい」というのが、善なる戒めであるということを知っています。またそれに反する行動(つまりは愛のない言動)をするときには、良心の呵責(かしゃく)を覚えます。すなわちそれが「罪」であることを知っています。しかし非常に残念なことに、私たちはすべき善を行うことができずに、してはならないと分かっている悪(罪)を行ってしまいます。つまりは、私たちの内に「愛」がないのです。使徒パウロが大胆にも自分をさらけ出して、こう激白している通りです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。(ローマ7:19)
贖(あがな)い
そのような罪のゆえに永遠に裁かれなければならない人類のために、神様はご自身の独り子なるイエス・キリストを十字架上で犠牲にされ、その全身の血(命)を流させ、人類を罪から贖ってくださいました。そしてそのことはキリストの生誕以前に書かれた旧約聖書のあらゆる箇所に、型(モチーフ)や預言としてあらかじめ示されておりますから、キリストの死後に意味を後付け的に付与したのではなく、永遠の昔からの神様の驚くべき摂理であることが分かります。
神の愛・キリストの愛
しかし、この十字架は人類の罪を帳消しにするということ以上の意味を持っています。もちろん、罪が恩赦されることだけでも大きな福音(良き知らせ)なのですが、同時にこのことは驚くほど一方的に神様が私とあなたを愛してくださっているということを示しているのです。ヨハネの手紙の記者はこのように明言しています。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)
またイエス・キリストは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)とご自身で語られ、そしてその通りのことを実践してくださいました。つまり福音とは、「愛しなさい」という正しい律法を守ることのできない人類に対して、神様がこのように言われているようなものなのです。「では、私があなたを一方的に愛するから、その愛を受け入れなさい」
新生
この愛の大きさが分かれば分かるほど、私たちは涙と共に自分の愛の無さ(罪)を悔い改め、愛する者へと変えられていきます。私たちは自ら愛を実践する力がないとしても、多く愛されれば、少しずつ愛のある者へと変えられます。子どもの頃に十分な親の愛を受けた者は、同様に自分の子どもを愛するように、神様の愛を深く理解すればするほど、私たちは神を愛し、神の愛されている隣人を愛したくなるのです。このように、福音には人を新生させる力があるのです。私自身、神の愛に全身が包まれるような体験をしたことがあります。その時は感謝の祈りと涙が止まらず、そのあと外を見渡すと全てがキラキラと輝いて見えました。
ここからが非常に重要なのですが、そのような驚くべき無限の神様の愛に触れた者にとって、「愛しなさい」という最高峰の戒めは、もはや戒めではなくなってしまうのです。なぜでしょうか。戒めとは「したくない~を、しなさい」ということでしたが、神様の愛に触れたものは、自分も愛を実践したいと心から願うようになります。そのような人にとって「愛しなさい」という戒めは、「したいことを、しなさい」と言われているようなものだからです。もはや神の命令は重荷でなくなるのです。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(Ⅰヨハネ5:3)
世界中で実を結ぶ福音
一度そのような福音を本当に理解した人々の群れができるときに、もはやそれを押しとどめることはできません。心から愛を実践したいという人々が集うときに、その愛はさらに大きく互いの中で膨らんでいくからです。そして、実際にキリストの福音は世界中に広がってきました。
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ1:6)
今日(こんにち)の教会
しかし、非常に残念なことに日本においては、キリスト教人口は増えるどころか、減少しているともいわれていますし、一度信仰を持った方々も数年を経ず教会を去ってしまう方が多いとのことです。このことは日本だけに限らず、清教徒(ピューリタン)の建国した米国や、米国に次いで多くの宣教師を輩出している隣国の韓国においても同様に人々の教会離れが進んでいます。それにはさまざまな要因があるのでしょうが、致命的なケースは、教会において福音が少ししか語られずに、むしろ律法(戒め)がことあるごとに強調されてしまうことです。
確かに最初に洗礼講座を受けるときには、福音が語られ、十字架の意味が教えられ、人々は多くの恵みを受けます。しかし、もしもその後に教会で福音の恵みや神様の愛が繰り返し強調されずに、「互いに愛し合いましょう」「忍耐を学びましょう」「困っている人々を援助しましょう」「犠牲を払いましょう」というようなことや道徳的なことのみが語られ、指導されるとしたら、人々はその言葉が正しいゆえに誰も反対することはできないでしょうが、信仰生活が窮屈で喜びのない義務となってしまいます。
そしてこの問題の根深さというのは、「互いに愛し合いましょう」と語る人がそれを律法とは気付かずに、福音的なことを語っているつもりで語ってしまうことです。これは何も牧師先生方のことを言っているわけではありません。教会員同士の会話の中にも、同様のことが頻繁に起こっているのです。福音がわずかしか語られないのに、律法(戒め)ばかりが強調されてしまうと、アクセルを踏みながらブレーキを強く踏んでいるようなものですので、良い知らせであるはずの福音の喜びが広がるゆえもないのです。ではどうすれば良いのでしょうか?
おわりに
それは徹頭徹尾、教会においては「福音」が語られればよいのです。神の愛、十字架の恩寵の広さ、長さ、高さ、深さはいくら強調しても強調しすぎるということはありませんし、いくら語っても語り尽くすことはできません。
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:18~19)
そうして神の愛に包まれて、心から愛を実践したいと願う思いが溢れ出てきた方に対して、「キリストが愛されたように、互いに愛し合いましょう」と一言勧めてあげればよいのです。その方にとっては、「古い戒め」と全く同じ言葉が「新しい戒め」となって響くので(Ⅰヨハネ2:7、8)、心からの喜びと自由な意思をもって、その言葉に同意することができるのです。もうそれは腹ペコな少年の目の前においしい食事を与えて、「残さず食べなさい」と命じるようなもので、殊更に強調する必要もないほどなのです。
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連載を終えて
つたない文章を長い間読んでくださった皆様に心から感謝します。教会内において、分かっているようで明確でない「律法と福音」について、その役割の違いと関係について、自分なりに最善を尽くして書かせていただきました。それは「律法」が福音と混濁して語られてしまうことを危惧したからであり、純粋なキリストの「福音(ゴスペル)」がもっと中心的なものとして語られることを望むからです。また、教会に来られたばかりの方の、理解の助けになったなら幸いです。
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