罹災家屋約27万戸、罹災者約100万人、9万5千人を超える死者を出した東京大空襲から、10日で満75年となった。この空襲では、1665トンにも及ぶ大量の焼夷(しょうい)弾がB29大型爆撃機から投下された。戦時中、東京はこれ以外にも100回以上の空襲を受けた。特に1945年3~5月にあった空襲は非常に規模が大きく、ある教会は戦火を免れ、ある教会は全焼や部分的な損害を受けた。空襲の中を逃げ惑った人々の中には、もちろんクリスチャンもいた。当時の東京の教会と復興の軌跡を振り返り、そこに垣間見る神の働きに思いをはせたい。
鉄骨・鉄筋で耐えた神田教会、仮司教座聖堂の大役果たすーカトリック
麹町教会(千代田区)の広報グループは10日、フェイスブックで75年前のこの日、東京大空襲があったことを告げ、「今日は特に平和のために祈りたいと思います」とつづった。同教会は1945年5月の空襲で焼失し、上智大学のクルトゥルハイム聖堂が臨時の教会となった。戦後49年に再建し、ロヨラの聖イグナチオに奉献されたことから「聖イグナチオ教会」の名で親しまれるようになり、さらに99年、老朽化と信徒の急激な増加もあり、現在の建物に改築された。
5月の空襲では、東京大司教区の司教座聖堂(カテドラル)であった関口教会(文京区)も焼失した。これにより64年まで仮の司教座聖堂となったのが、神田教会(千代田区)だった。住宅密集地に建っていた神田教会は、4月13日と20日の2回空襲に遭ったが、同じ敷地内に建っていた司祭館やその他の建物が焼け落ちたにもかかわらず、ほとんど無傷で焼け残ることができた。同教会はウェブサイトで、「これも神様のご加護とシェレル師の悲願が、この聖堂を守り通したのではないでしょうか」と記している。シェレル師とは、13年の神田の大火で焼失した同教会を、火事・地震の両方に強い建築を目指し、鉄骨・鉄筋のコンクリートという、当時の日本には新しい建築方法で再建した第6代主任司祭のジャン・マリ・シェレル神父のことだ。28年に再建された神田教会は戦火を耐え、現在もミサが行われている。
戦火逃れ現存する会堂も多数、全焼しても再建ー日本基督教団
日本基督教団でも、戦火を逃れた教会は幾つもある。また、たとえ全焼しても戦後には再建を果たし、現在まで途絶えることなく礼拝がささげられている。
渋谷区の代官山教会も戦火を免れた教会の一つだ。29年に旧麻布区(現・港区)から現在の場所に移転し、当時は城南教会と呼ばれていた。戦後、幾度か改築・改装され、2012年に老朽化と耐震問題により解体されるまで、礼拝と祈りの場として役割を果たした。一方、同じ渋谷区にあった原宿教会は、5月の空襲で会堂、牧師館などがすべて焼失した。しかし、米国人夫妻からの献金により、48年に会堂再建を果たしている。
日本基督教団ではこの他、根津教会、西片町教会、本郷中央教会、弓町本郷教会など、文京区にあった幾つかの教会が戦火を逃れ、現在まで残っている。
新宿区の牛込払方町教会は、3月の空襲で会堂が焼け落ちたが、青銅製の大きなつり鐘だけは残った。この鐘は、女子学院の前進である桜井女学校の幼稚保育科長を務めていた幼児教育の専門家エリザベス・ミリケン氏の尽力により、米国の篤志家たちから贈られたものだった。現在の会堂は戦後再建されたもので、今日まで毎週礼拝が守り続けられている。
中央区の日本橋教会も3月の空襲で会堂が焼失したが、50年に再建された。同じく中央区の銀座教会は1月の空襲で会堂が半焼。46年に三田教会、青山教会との合併を経て、53年に会堂が改修された。
千代田区の富士見町教会は23年の関東大震災では全焼したものの、戦中の空襲は免れ、老朽化して85年に建て替えられるまで立ち続けた。その後2013年には、地区の再開発に伴い新会堂を献堂している。1930年に富士見町教会から独立して設立された洗足教会(当時・洗足伝道教会)の会堂も戦火を耐え、焼け出された教会員の数家族が焼け残った牧師館や会堂の小部屋に住んだという。そして敗戦から約四半世紀後に、現在の鉄筋コンクリートの会堂に建て替えられた。
中野区の更生教会は当時、杉並区の高円寺駅近くにあり、杉並教会と呼ばれていたが、空襲で全焼。それから5年後、「リバイバル=甦(よみがえ)り」を漢字2文字にして「更生教会」と名付けられ、現在の中野区若宮の地に再建された。
燃える東京でニコライ堂が果たした役割ー正教会
日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂教会(通称・ニコライ堂)は、空襲の被害を免れたが、終戦直後には小聖堂に戦災永眠者の遺骨が散乱するなど、荒れるに任せた状態だったという。同教会の沿革によると、戦後、日本の正教会は米国から主教を迎え、信仰生活を継続。戦後の混乱からも立ち直り、日曜学校の復興など教会活動は活発化していった。
ニコライ堂の聖歌隊指揮者であり、ギリシャ正教聖歌の研究者でもあった高井寿雄氏によると、ニコライ堂には、空襲犠牲者の収容所として聖堂を貸してほしいと申し出る人も訪れた。その申し出を受け入れたところ、次々にトラックが到着し、まるでふくれあがった七面鳥の丸焼きのようになった焼死体が次々と運び込まれ、聖堂内はたちまちいっぱいになったという。当時、ニコライ堂の責任者であった小野帰一主教は、これらの遺体がすべて遺族に引き取られるまで、毎夜、聖堂の中で一人、永眠者のためのリティヤ(奉神礼)をささげていたと伝えられている。
日本人女性歌手のNoriaさんはブログで、当時23歳だった祖母が空襲の中、ニコライ堂に逃げ込んだという話を紹介している。祖母は空襲の後、近くの湯島天神付近に避難していた祖父と合流し逃げることができたという。現代のような通信手段がない時代に2人が出会えたのは、この付近の人々の間では、何かあればニコライ堂に逃げることになっていたからだという。「ばーちゃんを守ってくれたのはニコライ堂」だと話すNoriaさんは、ニコライ堂が「大好きな建造物」だと言い、「ばーちゃんが生きていなければ、おかーちゃんもいない。もちろんわたしはここでこうしてみんなに歌を聴いてもらうことも、話を聞いてもらうこともなく、誰もNoriaは知らない、存在しなかった」とつづっている。
爆弾の直撃から守られた教会は、信仰の有無にかかわらず、広く地域の人々のために用いられていたのだった。