「世尊布施論」の山上の説教の一部分を紹介します。本書の中に「飛ぶ鳥を見よ」の漢文があり、その部分を和訳しました。
ただ飛ぶ鳥を見なさい。種蒔きも刈り入れもせず、倉もないが守られています。一神は砂漠でも食事に乏しいことはありません。犂(すき)がなくても作物はでき、衣服のことを心配しなくても多くあり、おもいはからなくても知られています。自分が正しくなくても、人の罪過を見てはいけません。自分が不正なのは、自分に欲望があり、他人もそうだと思うからです。自分の目の梁(はり)を見ないで、あなたの目の梁を除けと言うのと同じです。まず自分の目の梁を除きなさい。
祈りは一神に求めなさい。門をたたけば開かれ、祈れば必ず開かれます。もし祈って得られないのは、門をたたいても開かれないのと同じです。祈って得られないのはみだりに祈るからで、求めても得られません。
あなたがしてほしいことは他人も求めています。他人がしてほしいことはあなたも求めています。あなたが他人にしてあげれば、あなたも報われて悪の道から去ることができます。狭い道からあなたは天上に住み、そこには少しの人が入ります。広い道は歓楽があり、地獄に行きます。
ある者が預言すれば善悪は一様に現れます。あなたたちが知るために命じます。弥施訶(メシア)のもとに来て説教を聞きなさい。
これらをマタイの福音書の山上の説教と比較すると、内容的には似ているものの、表現に違いがあります。一般に黄金律といわれる「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法で預言者です」(7章12節)の名句には、『一神論』では説明が付けられています。
ちなみに紀元前の500年ごろに中国で生きていた孔子と弟子との問答書である『論語』の衛霊公第十五24には、黄金律とは逆の言葉があります。
子貢が「ただ一つの言葉で一生かけて行う価値のあるものはありますか」とおたずねした。先生(孔子)はこういわれた。「それは<恕(じょ)>だね。思いやりということだ。自分がされたくないことは、人にもしないように[己の欲せざるところを、人に施すことなかれ]」(『現代語訳 論語』齋藤孝訳、筑摩書房、2010年)
論語では、人と人との間に敬遠という距離があり、人間関係の消極的な面が強調されているようです。一方、新約聖書では人と人との間の距離があまりなく、積極的に人との関係を築くよう強調されている点で違いが見られます。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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