「世尊布施論」について紹介します。
「世尊布施論」を見て聞いて、多くの方は仏教書かと感じるでしょう。以前にイーグレープから『景教』を出版した際にキリスト教書店にも置かれたことがあり、仏教書かと問われたことがありました。世尊も布施も仏教用語ですのでそう感じられたことでしょう。この用語を唐代に使って書かれた経緯には何か訳があったのかと考えます。
世尊とはインドの梵語でバガヴァット、それを中国で仏教徒が漢訳したもので、借用語です。景教徒たちがシリア語から漢訳する際には、当時使用されていた現地語の漢語を用いるしかなく、翻訳初期にはこの用語しかなかったと考えます。それは、幕末時代に英語から和訳する際にエロヒームを、神道用語の「神」を使い「はじめに神が天地を創造した。・・・」と訳していったことと似ています。地獄も然りです。それは制約がありつつも、現地人に分かる言葉で宣教する必要があったことと似ています。
本書は、マタイの福音書6章前半の施しと祈りの部分を漢訳し、世尊である神への布施・献金の仕方を教えるに際し、漢訳したものを次のように現代訳しました。
世尊(イエス)が言われた。ある人が布施をするときは、人に対してではなく、世尊(神)に知られるように布施しなさい。もし左手で布施するときは、右手に覚(さと)られないようにしなさい。
もし礼拝するときは、外の人に聞かれたり見られたりせず、一神に見られるように礼拝をしなさい。もし祈りをするときは、みだりに願わず、人の罪を先に赦(放)しなさい。そうすればあなたの罪過は赦され、またあなたが赦せば、一神も赦されます。
家の使用人を赦すのは、一神の聖(シリア語音訳の客怒)イエス(翳數)だから。
この部分には、聖書との違いがあり、左右の手が福音書とは逆に書かれ、天父でなく一神となり、父なる神とイエスとが混同している部分もあります。
次は、マタイの福音書6章19節以降の天国に宝を蓄える部分です。
財産を地上に放置してはいけない。壊され盗難にあう。財産はみな天堂に置きなさい。壊れず失われない。二つの命は天下で唯一のイエスと唯一の天尊だ。このお方が我々の財産で、ほかにはない。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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