本書は、ノーベル文学賞受賞のカトリック作家フランソワ・モーリヤック(1885~1970)が著した異色のイエス伝である。神学や聖書学の立場ではなく、文学の立場からイエスの生涯について語ったもので、この作品が世に出たときは多くの人に衝撃を与えた。
卓越した心理描写と心打たれる美しい文章は他に類を見ないであろう。この書の翻訳者、杉捷夫(としお)氏は、次のような所感を寄せている。
「最も驚嘆するのは、この人間革命遂行の途上における、悩みと喜びにみちたキリストの姿が、実に鮮かに描かれていることであり、この書物を読んだ後では、自分がかつて、不完全な知識で、思い描いていたキリストの像がどんなものであったか、思い出すことさえできず、この著書のキリスト像だけが、私の頭を占領している」
「何よりも、このような『聖書』の読み方があったのかと、驚かれる読者が少なくないのではないかと思う」
フランソワ・モーリヤックの生涯
モーリヤックは1885年10月11日、フランスのボルドーに生まれた。父は彼が2歳になる前に死んだが、母は厳格なカトリック教育を授け、彼はカトリックの小学校、中学校を経て、ボルドー大学へと進んだ。大学卒業後、しばらくパリのエコール・ナシオナーレ・ド・シャトル(フランス国立古文書学校)に学んだが、青年期のほとんどはボルドーで過ごしたといわれる。
20歳になるころ、パリに出て若い詩人たちの運動に加わり、雑誌「現代誌」に寄稿するようになってコクトーと知り合った。そして、文筆活動をするうちに、バルザック、ドストエフスキーをはじめ、クローデル、ジャム、バレス、ジイドなどの影響を強く受けた。
1909年に詩集『合掌』を出してバレスに認められ、以後作家生活に入る。13年に『鎖につながれた子供』を発表し、その後『愛の砂漠』『テレーズ・デスケルウ』『蝮(まむし)のからみあい』『夜の終り』など優れた作品を次々に執筆。そして36年に、ここで紹介する『イエスの生涯』を著し、世界中に波紋を投げ掛けたのであった。
さらに52年には、これらの作品群で描かれている人間ドラマの「深い精神的な洞察力と強い芸術性」が評価され、ノーベル文学賞を受賞。同じカトリック作家の遠藤周作は、自身でモーリヤックの邦訳書も手掛けるなど、大きな影響を受けたとされている。
『イエスの生涯』の見どころ
ここでは、この地上で33年余りの短き人生を送ったイエスの生涯を、モーリヤックがその卓越した筆致で描き出した一部を紹介したい。
<かくれた生活のおわり>
かくれた生活の最後の数日。この職人はもはや職人ではない。彼はすべての注文をことわり、仕事場はうちすてられた場所といった様子を帯びている。
(中略)後に、キリストは歓喜の日に叫ぶ。「われ天よりひらめく電光のごとくサタンの落ちしを見たり!」(ルカ10:18)。彼がこの堕天の幻を見たのは、たぶん、この人に知られない生活の最後の時のことであろう。彼はまた見ていたであろうか?(どうして見ないということがあろう?)敗れた首天使が、彼のうしろに、幾百万という魂を、ひきつれるであろうということを。吹きすさぶ吹雪の中の雪片よりも数多く、ひしひしとひしめく魂を。
彼はマントをはおり、くつの紐(ひも)をむすんだ。彼は母親に永久に知られない別れの言葉をのべる。(38~40ページ)
<汝の罪ゆるされたり>
中風を病める者のとなえたのも、この同じ声に出ぬ祈りの言葉だったに相違ない。「我をいやしたまえ!」ではなく、「我を許したまえ!」 その時、いまだかつて人間の口から洩(も)れたことのない、この上もなく驚くべき言葉が湧きおこったのである。「汝の罪ゆるされたり。」
あわれな人間の一生のすべての罪。大きな罪、小さい罪、世にも恥ずかしい罪、誰にも打ちあけることのできないもの、いやしいばかりでなく、もの笑いになるような罪、――それからまた、忘れることができないくせに、一度も己が考えをその上にとどめることをしなかったあの罪。すべてが消し去られた。明細を求められることなく、怒りの声を投げつけられることもなく、冷笑をあびせられることもなく、人の子は、悔い改めている者にその恥をいつまでも噛み味わうことを強制しない。すでに彼は、この魂を十分高く、遠く、詰めよる群衆から遠く、はなしてしまった。魂の治療が彼の心の中で肉体の治療に立ちまさって見えるために。(64ページ)
<マグダラのマリヤの悪鬼>
マグダラのマリヤは肉の宿命を克服したのである。愛は愛によってしか克服されえないから、彼女は火をふせぐ火を放ったのである。肉の創造が彼女の全生命であった日に、彼女にとって全世界がただひとりの人間のまわりに消滅したと同じく、(中略)今日、キリストがこの気ちがい沙汰を福に転じる。再び世界は無に帰するが、この度は神である人間をめぐってそれが行われる。(中略)古き欲望は死滅する。純潔と熱愛とが結合し、このしずまった心の中で和解する。マグダラのマリヤはイエスが食卓についている広間の中へはいって来て、ほかの客には目もくれず、まっすぐキリストの方に向かって進む。世界にはキリストとキリストを愛するこの女のほかに何ものもない。今や、彼女の愛は彼女の神となった。(94~95ページ)
<おさまった嵐>
弟子達は、「君よ、我らはほろぶ!」(ルカ8:24)と口々に叫んで、彼の目をさまさせた。キリストは立ち上って、海に命じ、たちまち海はないだ。弟子達は、おびえ、へさきに立って、長髪を風になびかせている人を、ただ眺めるばかりだった。彼等の恐怖は対象を変えていた。彼等は今、目の前に見る師の姿に見覚えがなかったからである。あのうちとけた、やさしい、激しい師はどこへ行ったのか? 血と肉との上に、未知の神がうかび出て、それが彼等に恐怖をおこさせたのである。(中略)ほかでもない。風も波も彼に抵抗しないが、愛のために引き裂かれた心は、欲望のためにつき上げられた肉は、気ちがいじみた力で拒もうとする。その時、風は「否!」と叫んで力なき神の横顔を打つ。(99~100ページ)
<姦淫(かんいん)の女>
あわれな女は、髪をふりみだし、殆(ほと)んど半裸体で、じっと立ったままでいる。恐ろしさのために生きた心地もなく、追いつめられた動物の目で、この見知らぬ人を、祭司長等が裁判官として彼女に与えたこの見知らぬ人を、じっとみつめている。彼は、イエスは、女の方を見もしなかった。身をかがめ、指で地面に何ごとか書いていた。(中略)単純な真実はそんなことよりもずっと美しい! 人の子は、この不幸な女がおそろしさよりも恥ずかしさのために気絶しそうになっているのを知っていて、その方を見なかったのである。ある一人の人間の生涯のうちには、最大の慈悲はその方を見ないでいてやることであるような時刻があるものだからである。罪人に対するキリストの愛のすべては、このそらした視線の中にこもっている。(中略)女は立ち去った。女はまた帰ってくるであろう。というより、帰って来る必要を感じていなかった。二人は一つに結ばれていた。今から永久に。(144~146ページ)
<魂の匂い>
その後に続いた重苦しい沈黙の中で、ペテロはイエスの肩にもたれて横になっているヨハネに相図した。「誰のことを言い給うか、告げよ、」(ヨハネ13:24)と言う積りで。ヨハネは、目をあげ、僅かに、唇を動かしただけで、言おうとすることをわかって貰(もら)えた。(中略)そこで、イエスは、この弟子の耳もとに、ささやいた。
――わが一つまみのパン(食物)をひたして与うる者はそれなり。
こう言ったと思うと、皿の中にパンをひたして、一口分をユダの方に差し出した。ユダは、反対側に座っていたのであるから、話はきいたに相違ない。少くとも、彼は、キリストの顔が、彼の寵愛(ちょうあい)の弟子の顔の上にかがみこむのを見た。まさしくこの瞬間。「悪魔かれに入りたり。」 嫉妬に狂うばかりだったのだろう、このユダは。(中略)この不幸な男の中に鎖を切って放たれる憎しみ。突如たる、天使の憎しみ。人の子は、もはやそれに耐え得る状態にはない。なお、全受難の過程を忍ばねばならぬ彼が。愛のためにつくられた魂の中に、この現実な、質量をそなえた悪魔の現存、そのことが彼に残された力を押し流した。彼はそこで、ユダを促した。
――なんじがなすことを速かになせ。(ヨハネ13:25~27)(207~208ページ)
<死>
と、突然、胸をえぐる叫びが、この上もなく思いがけない、今なお我等の胸を凍らせる叫びが起った。
――わが神、わが神、なんぞ我を見すて給いし・・・(マタイ27:46)
これは詩篇第21(第22)の最初の一行の文句である――キリストが死に至るまでその文面を生きることに没頭したあの詩篇の。然(しか)り、我等は我等の信仰の全力をあげて信じる。子はなおこの恐怖を、父に捨てられる恐怖を、経験しなければならなかったのであると。
(中略)イエスは言う。「ことおわりぬ。」「ついに首をたれて霊をわたし給う。」(ヨハネ19:30)しかし、その前に、彼はあのふしぎな大声を発した。一人の百卒長が、胸を打って、「げにこの人は神の子なりき・・・」(マルコ15:39)と叫んだほどの。いかなる言葉も必要ではない。創造主のよろこび給うところであるならば。叫び声だけで十分である。造られたものがそれを認めるのに。(239~240ページ)
<復活>
何も獲物がなかった。一人の見知らぬ男が、舟の右へ網をおろせと教えた。あまりにたくさんの魚がかかったので、ヨハネが突然了解した。「主なり! ペテロよ、主なり!」と、ペテロは、一刻も早く愛する主に追いつくために海にとびこんだ。あそこにいる、岸に。まぎれもない主である。たき火が煙をあげる。太陽がペテロの着物を乾かす。とった魚をあぶる。イエスのわけてくれるパンを彼等は食べる。(中略)それからイエスは去り、ペテロがそのあとを追う。その少しあとから、ヨハネが――恰(あたか)も「とくに愛し給いしもの」という彼の特権を失ったかのように。恰も、よみがえり給える主が、我が心の偏愛にもはやゆずり給わぬかのように。(中略)それから、数週間後に、イエスが、弟子達の群から離れて、天にのぼり、光の中にその姿がとけてしまった時も、それは二度と帰らぬ旅立ちというべきものではなかった。すでに、主は、エルサレムからダマスコへ行く道の曲り角で待伏せをし、サウロを、彼の最愛の迫害者をねらっている。この時以後、すべての人間の運命の中に、この待伏せをする神がい給うであろう。(247~248ページ)
■ フランソワ・モーリヤック著、杉捷夫訳『イエスの生涯』(新潮社 / 新潮文庫、1952年)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。12年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。