中央アジアの遊牧民と景教徒ソグド人
シルクロードと重なる道にステップロード、草原の道があり、はるか昔から遊牧民の東西南北の移動によって貿易が盛んに行われていました。それは今も続いており、車社会になりつつある中でも馬やラクダが用いられています。
ソグド人は中央アジアの特にウズベキスタン周辺で、紀元前より発生したといわれています。東は現在のキルギス、南はアフガニスタン、西はイランで、多くの民族が交差し交易する地です。玄奘は『大唐西域記』にこの地のことを記しています。
『日本書紀』には、654年から数回にわたり「トカラ国(吐火羅國、覩貨邏國ほか)」から人々が日本列島に来たことを記しています。トカラは恐らくトハリスタンのことでしょう。トハリスタンは中央アジアのソグド人たちの故地で、中央アジアからか中国からか、恐らく難民として来ていたと考えられます。
トハリスタンの場所については、仏教発祥の北インド説とアフガニスタン北部のバルク地方説があります。著者は、ソクディアナに近いことからアフガニスタン北部と考えます。
景教徒の中にはシリア人、ペルシア人、ソグド人もいました。781年に中国長安に建った景教碑には、主教の伊斯の名が刻まれ、碑陽下部分にはシリア語で「トハリスタンのバルクで亡くなった長老ミリスの子の主教イズドボジードが中国皇帝に宣教するために来た」と書かれています。このイズドボジード(伊斯)の子が景教碑文を撰述した景浄で、長安の主教です。
紀元755年からの安禄山の乱で、皇帝に反旗を翻した安禄山とその部下の史思明はソグド人であり、その平定にソグドの地であるバルクから来ていた景教徒の伊斯が活躍して皇帝を助けたと景教碑文にあります。
1976年ごろに中国洛陽市洛龍区李楼郷斉村で発見された景教徒の経幢(きょうどう)には、ソグド人の名前が出ています。八角柱の大きさは、高さ60センチから85センチ、直径は約40センチ、一面の幅は14センチから16センチ。一面には三一の神をたたえ、二面の冒頭には「大秦景教宣元至本経」と彫られ、五面の冒頭には「大秦景教宣元至本経幢記」と彫られています。文面には、829年に葬儀があったとあります。(写真は呉昶興著『漢語基督教経典文庫集成』より)
ちなみにこの経幢は、以前に大学入試センター試験の世界史に出題されました。
2010年に洛陽市より発見された唐代の墓誌銘については、作者がソグド人景教徒であることが分かっています。安氏墓誌の安夫人は821年に逝去し、花府君公墓誌銘の花は827年に逝去していますから、唐代の作であります。(写真は呉昶興著『漢語基督教経典文庫集成』より)
この拓本の3点は、安という景教徒の逝去に伴って造られた墓誌と言えます。年代もほぼ同じで、経幢が建てられた場所と墓の所在地も近い所です。このほかにも、805年作のソグド人景教徒墓誌「米継芬墓誌」の米継芬(713〜805)について刻したものが長安で発見されています。
安禄山の乱の終結で伊斯の活躍もあり、中国各地の景教大秦寺会堂には多くのソグド人信徒の出入りがあったのではと考えます。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
呉昶興著『漢語基督教経典文庫集成』(橄欖出版有限公司、2015年)
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