敦煌で発見された景教文書について
この地で、以下に掲載する景教経典と讃美書が発見されました。「・・讃」は讃美書のこと、「・・経」は聖書類のもの、「・・論」とは教理書のこと。
一神論の中の世尊布施論の末尾に641年と書かれています。太宗皇帝の貞観15年のことで、序聴迷詩所経も阿羅本による翻訳書殿での作と考えられます。なぜなら両者とも同じ紙質と同じ書体であるからです。
ところが、この当時の年代は主の降誕を紀元後1年として計算しているとするなら、現在分かっているように降誕年を紀元前4年ないし5年として計算し直すと、著作年が違ってくることになります。ここでは当時のままとしました。
序聴迷詩所経と一神論、大秦景教宣元至本経、志玄安樂経の原本は現在、大阪にある武田科学振興財団の杏雨書屋が所蔵しています。
序聴迷詩所経と一神論の冒頭部分
大秦景教宣元至本経と忌字
「民」の一画の横線が欠けているのは、李世民の忌字で、「民」を使用するときは変化させるのが常識となっていました。唐代で景の字が現代の景でないのは、皇帝の親族に景の字がつく人物がいて忌字となっているからで、景はすべて変化させています。それにより、唐代に書かれたかどうかも判別できます。
志玄安樂経
次の2つの書物の最終行には「沙州大秦寺」とあります。沙州は敦煌で、大秦寺は景教会堂のことです。大秦景教宣元至本経は、開元5(717)年10月26日に沙州大秦寺において原書から写したと書かれています。
大秦景教大聖通真歸法讃は、開元8(720)年5月2日に沙州大秦寺において写したと書かれています。父なる神を大聖慈父阿羅訶と書いています。阿羅訶は、エロヒームのシリア語訳の当て字です(創世記1章1節の神と訳されたヘブル語エロヒーム、シリア語訳でエルカの当て字)。慈しみ深き父なるお方は、栄光に輝く方であることを賛美した書です。本書ではダビデを多恵と漢訳しています。
この書の中の「民」の字が2カ所あり、共に一画欠けて忌字となっています。
大秦景教三威蒙度讃、尊経
三威蒙度讃は、ペリオが敦煌莫高窟で発見。景教徒たちが洗礼の式典のときに賛美したものと考えられます。三威は父・子・聖霊(浄風)。いと高きところに栄光が父にあるようにと賛美した書。シリア語で書かれていたものを漢訳したものです。
尊経には、聖書類や聖書記者たちが列記されています。ダビデの詩篇は多恵聖王経、マタイは明泰、パウロは寶路などと漢訳しています。原訳は初代宣教師の阿羅本によるものですが、彼の後で景浄が増補追加していることが書かれています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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